本

『共感の論理――日本から始まる教育革命』

ホンとの本

『共感の論理――日本から始まる教育革命』
渡邉雅子
岩波新書2079
\900+
2025.9.

 先に『論理的思考とは何か』が、同じ岩波新書として発行されている。その続編とも言えるのが本書である。
 前著では、いわゆる「論理」というものが、世界共通の一つしかないのではなくて、幾つかの型のようなものがあることを明らかにしていた。読者に明確に分かるように四つのパターンでそれを示したのだが、すでに2023年に『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』という形で発表していたものを、新書という形式でポピュラーにしたのである。
 その四つというのは、アメリカ型の「エッセイ」、フランス型の「ディセルタシオン」、イラン型の「エンシャー」、そして日本型の「感想文」というわけである。いまそれらをここで改めて説明することは控えるが、本書では、これを「教育」の現場にもたらす点、特にこれから世界の新しいパラダイムが必要になるときに、この日本の型が重要である、ということを示そうとしている。
 最初、そうした主張が本書で見えてきたとき、これはやや唐突で、日本における情緒的な感想文が、新たな世界のスタンダードになる、ということなど、幻想的な話ではないか、というように思えた。もしかすると、その見え方自体が、すでにこれまでの近代的な論理に浸りすぎて、それを常識であり真理であると思い込まされてきた中に自分が正にある、ということを表しているのかもしれない。それほどに、著者は、自分の信念を貫き、近代に於ける西欧的な論理というものを、はっきり言えば覆そうという情熱をぶつけている、ということになる。
 論理の転換は、もう凝り固まった大人に求めることは難しい。しかし、教育というものは、若い子どもたちを陶冶するという意味に於いて、いわば未来を創造する営みである。これから教育を換えてゆけば、未来は変わるであろう。その教育に於いて、日本の教育の考え方が果たす役割がきっとあり、世界の危機を救うきっかけになるのだ、という熱い思いをここに感じるのである。
 その教育というのは、基本的に「作文」である。私も入試の作文の指導をしていたから、言われていることについては理解できる部分が大きい。但し、私は必ずしも「型」通りに書け、というようには指導しなかった。それは受験としては遠回りであり、結果を導くためのものではなかったかもしれない。一人ひとりの作文それぞれに向き合って、その子の個性をできるだけ生かそうとして、修正させていったのである。
 しかし本書では、もっと堂々と、日本の作文の「型」で導いてよい、というような角度から書かれていたようにも見える。私も指導法を換えようかという気持ちになってきた。
 この本は、従って教育の本である。小学校・中学校・高校と段階それぞれに、指導の仕方が変わる。高校生になると、読解との兼ね合いが、作文に強く関わってくるが、小学校の段階ではそれは難しい。むしろ、日本の論理に潜む「利他」という視点を養い伸ばす向きで、「情緒を介した共感による読解」に徹し、「他者への思いやり」を育むべきだ、と強く主張する。
 それは当たり前ではないか、と思う人もいるだろう。そう、日本人には、これはかなり当たり前なことである。却って、これを出さない「論破」には、不快な感情すら抱くのが普通である。尤も、最近はその「論破」が小気味よく思え、その路線でネット上でマウントを取ることに快感を覚える人が増えているようにも感じられるが、それはある意味で旧来の近代主義がもたらした論理のなせる業である、というのが、本書からの見え方ではないかと思われる。冷たい論理が、地球環境を破壊や破滅へと導こうとしている、というような視野も、著者は本書で垣間見せる。
 ある意味で、それは過激である。だから、これが文部科学省をいま変えるとは思えないし、世界が従うとは到底思えない。しかし、だからこそ、提言する意義があるだろう。あまり誰も気にしないようにしているようにすら見えるが、世界は危機の中にある。それを打破するには、何かが変わらなければならない。著者の見ている世界像は、その転換にも関わり得る、ダイナミックなものであると見た。
 いま、情報の分野に関係して、リテラシーという考え方が注目されている。さらに、AIの急速な現実的影響は、近い将来に、もしかすると取り返しのつかない事態を招きかねないという危機をも呼んでいる。そうしたすべてを視野に於いての提言である。多くの人が真摯に受け止める価値があるのではないか。本書の通りにするのがよいのかどうかは分からないが、本書のパースペクティブは、考える人が経験するに値するのではないか、と思った。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります