本

『教師の哲学』

ホンとの本

『教師の哲学』
岬龍一郎
PHP研究所
\1,400
2003.5

 この本でいう教師とは、学校の教団を与る先生のことではない。広い意味で人を教え導く能力のある人間のことである。
 著者は、森信三から新渡戸稲造、福沢諭吉や夏目漱石、吉田松陰など、多くの人格を社会に役立つ人間として送り込むことを為し得た、教師を紹介していく。それぞれが、著者自身にとっても、人生の師であったともいうが、なるほどこの錚々たるメンバーもさることながら、その教え子、影響を受けた人々が国家社会のためになした役割というものは、とてつもなく大きい。
 それらは、著者の主観によって捉えられている。逆に、読者一人一人にとって、それぞれの師と呼ばれるひとがあってよいわけだし、この本の続編は、読者それぞれがつくり出していってよいことになる。
 どこか古くさい薫りもする。今時、倉田百三の本や、三太郎の日記を読んで実入りがあるのかどうか、私は分からない。私自身は、それらに憧れた、ほぼ最後の世代ではないかと思っているが、今の哲学徒は、そんな世界を知る由もないのではないか。この本の著者もまた、こうした古き良き時代の真面目な求道者たちを称えている。むしろ、そうした教養を消してしまった、戦後民主教育ではいけない、と叫ぶがために。
 戦後民主教育に問題がある。だから、天皇中心の八紘一宇思想でなければならない――そう訴える、あるいは訴えたい人々がいることは熟知している。彼らは、論理においては通用しない説明で、人々の感情に訴えかける。彼らの言いなりになってはいけない。私たちは、軍事国家へと動いていくことに、無頓着であってはならない。著者は、そのあたりまだバランスを保とうとしているように思われる。戦後民主教育に問題があることが、そのまま、天皇国家の肯定には、論理的になり得ないのである。
 ただ、昔を知る人は歯がゆいだろうとは思う。どこか背中がぴしっと伸びて、一筋通っていたと記憶している時代と比べて、今はなんとだらしなく見えることか。
 この本の中で、「痩せ我慢」という言葉を、私自身、新鮮に聞いた。ほとんど死語のようにさえ思えたが、この言葉の含蓄は深いと気づかされた。「痩せ我慢」をしなくなった時代とは何か。金でも名誉でも、そのような欲望を抑えてなお守ろうとする大切なものがある、というのが、痩せ我慢の世界である。たとえどんな損をしようとも、守らなければならないことがある。我慢しなければならないことがある。それを痩せ我慢と呼ぶ。たしかに、これが絶滅しかけている。ペットボトルをいつも持ち、1時間おきにそれを口にする子どもたちを見ていると、我慢の「我」の字さえなくなったのだと悲しくなる。無理をしてでも、体面を保つために、正義を貫くために、厳しさに耐えるとすれば、立派な「痩せ我慢」なのだが、そんな子がめっきり見られなくなってきた。そこには「気骨」もないし、「気概」もない。
 どこか時代錯誤であるかもしれない。しかし、せめて教養としてでも、日本人の筋の通った生き方の実例を、知っておいてほしいと、私も思う。彼らの苦労を精一杯想像して、自分に今できる「痩せ我慢」は何か、と自省してみると、よいのではないか。




Takapan
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