本

『教育力』

ホンとの本

『教育力』
齋藤孝
岩波新書1058
\735
2007.1

 図書館でこの本を借りて、少し読んだとき、私は読むのをやめた。
 これは、買って読まなければならない、と分かったからだ。
 最後まで、期待を外すことがなかった。というより、私自身の教育実践を裏打ちするような理論が滔々と流れていたからである。
 数々の話題になった著書を手がけ、テレビ番組も監修している、いわば売れっ子の著者である。しかし、その著者が、ようやくこのような本を書けてうれしい、ということを述べている。まるで感無量といった具合である。それだけの、力のこもった作品であることは、読むほうも十分に感じることができた。だから、この一冊は、実に丁寧に読んだ。黄色いラインマーカーで丁寧に線を引こうと思っても、どのページも真っ黄色に塗られていくようであった。
 教育力というのは、当然著者の専門分野である、学校教育を念頭に置いての言葉である。が、教育という概念が成立するような場面であるならば、どこでも共通するような、立派な教育論となっているところが、感動的ですらある。人に何かを教えるようなことのある、あらゆる人々にとって、この教育理論は、バイブルと呼んでよいほどの内容となるのではないだろうか。
 もとより、著者は、個人的な見解であることも、はっきり伝えている。自分はこのように思う、という表現で、他の考え方も許容するような書きぶりである。だがそれは、著書の価値を下げるようなことは全くなく、むしろ明確に事実と意見とを切り換えている誠実さの証しとなっているように見える。
 どこがどうよい、ということは、説明できない。
 ただ、つねに教師の視点で、何が必要か、どんな人が教師であるべきか、教師としてどうやっていくのが望ましいのか、それがリズム打たれながら本書の叙述が連なっていく。
 本書の内容を、ここで紹介するのが筋道だとは思うけれど、私にとり、そのどれもが、自分の教育理想や教育哲学と重なってくるものだから、抜粋することさえ不可能なほどに、ここには、教育に必要な知恵がぎっしり詰まっている、としか言いようがない。
 これは、学校のことに限らない。著者も言っているとおりである。むしろ、私は声を大にして言いたい。これは、教会の牧師が読むための本でもある、と。
 教会の牧師で、もしもここに書いてあることが自分にとってしっくりこない、あるいは、自分はこんなことをやっていない、初めて気づいた、というふうなことがあったとしたら、それは、自分が牧者として未熟であることを悟らなければならない。ここにあるのは、教育を実践してきた者は、当然知っているか、体得しているかする事柄ばかりである。私なども、十分実践できていないとは思うものの、毎日の教壇において心がけていることばかりが書いてあるということで、驚いたのである。ここにある教師としての資質や姿勢については、当然今までそのようにやっているし、そのような目標を常に掲げている、と口にすることのできるような、牧師でなければ、リーダーたるに相応しくないとされても仕方がない。
 厳しいことを言うようだが、牧師はプロなのだ。これをやって初めて、給与をもらうことができる、プロなのだ。教育力の欠落する人物が牧師や伝道師として続けられているとすれば、実に情け深い神と信徒の哀れみによることなのである。それを、自分が何ものかであるかのような態度で出るならば、あらゆる失敗した教師と同じ運命を辿るであろう。
 教育力のないリーダーは、リーダーたるに相応しくない。そのために、その教育力とは何であるのか、この本は穴が開くほど読み、実践の汗を流してよいだけの価値があるものだと思う。もちろん、それは他人事ではない。




Takapan
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