本

『共謀罪の何が問題か』

ホンとの本

『共謀罪の何が問題か』
山佳奈子
岩波ブックレットNo.966
\580+
2017.5.

 共謀罪なんだか組織的犯罪処罰法改正案なんだか分からないが、混乱の中で2017年初夏、強行的な印象の採決を急ぎ、7月に施行となった。テロ対策という言葉で納得させようとしているが、どうもその点が怪しいような気がしてならない。本書はブックレットという正確の故に、読者に新たな視点をひとつでもいいから提供するということをモットーとしているようであり、その故に伝わりやすい構成になっているのではないかと思われる。つまりは、テロ対策という内容は実質的にないのだ、ということが、法学的な観点から述べられているのである。
 マスコミから流れてくる時には、花見の下見がどうだなどといった、どうでもよいようなところばかりが、分かりやすいという意味故か、伝えられてくる。が、問題はそんなところにあるのではない。実際に警察が動きやすくするという目的があり、その「形式」を正当化するというのが主眼なのである。その「質料」として、テロを挙げておけば国民も動かされるだろうということなのだが、実際テロという要件が大きな位置を占めているわけではなく、実質内容はその都度変更可能な緩い規定になっている。だから、遣いようによっては、政府批判をしたことで発動する可能性を、当然有しているのである。そんなことのためには使わない、という口約束はあるが、そんなものが信用できたら、これまでの様々な事例の政府説明に誰もが満足していることだろう。適用対象はかなり自由にその都度設定できる。確かに、テロ準備にもできる。しかし、それがすべてではないし、法的にはどれそれには適用されない、という保証がどこにもないのである。
 こうした、実際の法的な観点から検討する場をもっていないと、私たちも感情や情報で流される。そうか、オリンピックを前にしてテロを起こさせないためなのだ、ということで何かしら成果が上がったら、おそらく多くの国民は、この法律があってよかった、というふうに惹きこまれていくだろう。しかし何かの機会を待っているというのが判明したときには、もう誰も止めることができなくなるし、そうなる前に、口をつぐむような世の中になってしまっているのかもしれない。互いが互いを牽制し、抑えるはたらきをする。そうなると、自分は何もしないから責任がない、などとは言えなくなる。私たちは、「しない」という行為によって影響を与え、責任を負うということがあることを、あまり認識していないのである。
 アメリカの意向ではないか、という話は大きな主張として載せているのではないが、これは実際かなり濃い根拠となっているものであろうがゆえに、著者も触れているのだろう。ただ今回それを言い過ぎると、論点がぼやけるために強く論証するような方向に出ていないと思われる。つまり不確かとされる可能性のあることにへたに触れると、それを根拠にすべての言明が疑われてしまうので、まずは押さえられる部分を明確に押さえておくというものなのであろう。読者にはそのほうが親切であり、役立つものとなるであろう。
 明確に規定された上でのみ法が適用されるというものではない可能性を秘めているゆえ、野党が懸念していた事態は、起こることがありえないなどとは言えないのが実際のところだ。何かしら政府側の意図が憶測されているが、なるほど、表向きの発言とは違うところに当然政治的な信念や決定方針があるはずなので、そうしたところに国民が気づくためにも、政府を批判する言論には一度目を通しておくべきだろうと思う。これに賛同するのか、そんなことはないと否認するのか、それは読者の判断である。だが、すでに著者には言論上の問題が迫った経験があるのだというし、これが「法」という正義の名のもとに、これから頻繁に生じ、それがあたりまえのことのようになってしまったら、私たちは思うのだろうか。「どうしてこんなことになったのだろう」「いつの間にこんなことになったのか」と思う未来像が頭に浮かび、やるせなくなってくる。
 だから誤ってはいけない。「何が問題か」を知ることである。




Takapan
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