本

『「空気」の研究』

ホンとの本

『「空気」の研究』
山本七平
文春文庫・文藝春秋社
\300?
1983.10.

 激しく古い本に属するであろう。申し訳ない。
 古書の並ぶ中で見つけた文庫本である。これは読んでみたかった本の一つであった。
 時代的な制約もあるが、傾聴に値する指摘が少なくない。
 もはや山本七平という名前にも、最近の人々は反応しなくなったかもしれない。山本書店とはなんぞやという眼差しが、キリスト教関係者からも言われそうである。だが、かつてマスコミにも大きく取り上げられ、またよく読まれた本の実の著者であるとして秘密めいた扱われ方をしたこともある。聖書関係の出版では定評があり、学術的な質のよいものがこの人を通して日本語で紹介された事実がある。
 日本とは何か。日本でキリスト教は伝わるのかどうか。こうした思いのクリスチャンは少なくない。そこへ、たんに伝道のためなどということでもなく、この日本に生きる自身と環境としての「空気」との対決を図った本である。それは、戦争体験の中から、日本人であることを問い続けてきた著者の、一つの示しうる解答であったのかもしれない。
 この文庫にして1983年発行、単行本としては1977年である。時代がそこに盛り込まれていないはずがない。社会的、政治的事情や背景を盛り込んでの説得力ある話が溢れている。それが今では、違うな、と思われることも当然ある。まるで日本が共産党に支配される国になろうかというような話しぶりがあるため、読む人によっては、だから信用がならない、ということになるかもしれないが、むしろ懐かしいというくらいに思うほうが適切であろう。社会の進み方が当時の予測を外れていたとしても、日本の中に渦巻く「空気」そのものに対する眼差しが、ずれていたわけではないのではないか。
 すでに流行語としての価値は死語に移り進んだにしても、「空気読めない」は、まさにこの国を包む、動かせない何か大きなもの、それを前提としていた。個人と神との結びつきといった基盤があっての社会とは違い、共同体ありきの生き方、国に属することでのみ存在価値をもつ生活と生命は、歴史とか文化とかいうものをすべて包み込み支配するようにして、この土壌そのものを塗り込んでいる空気に属している。
 さらに著者は、「空気」から視点を「水」に移す。日本人は、包まれた空気の中で生きており、まずいことは水に流す。いや、言いたいのはそれではない。「水を差す」ということだ。決まり切ったのそ空気の中に、水を差すことに、自由を見いだすのがこの国である。それは個人の自由という西欧的あり方を許さないものであった。日本人の精神は、豊かなこの空気と水の中で呼吸しているのだという。
 さらにこの本には、日本的根本主義についての考察が掲載されている。キリスト教の歴史の中で、ファンダメンタリズムと呼ばれる一派は、小さくない位置を占めている。ガリガリの聖書主義だと揶揄されることもある。しかし、日本は別の意味でガリガリに決めた路線をひた走る。日本のそれは、キリスト教のような個人の精神の独立を認めない。ただ、悲観するだけがすべてではない。ここにはこのような「空気」が存在する、それを認識することで、必ずしもその根本主義に埋没するのではなく、すでにそこから自由になっていることを証しするという可能性をもつのだ。完全に離れきるようなことではないにしても、あたかも「無知の知」のように、自らの陥った過ちや拘束から、解き放たれる一歩を得たことになるのである。
 当然のことのように、これに関して、キリスト教の根本主義にも触れるのだが、そもそも宗教改革者のひとり、ルターに対しても、古くから反論があったことの指摘が心に残った。ルターが悪魔と呼んだミュンツァーが、ある意味で純粋な信仰の故に、ルターなどの改革者を、パリサイ人と同じことをやっているではないか、と批判しているのだ。
 現代のキリスト者も、この戒めを忘れてはならないと、私もつねに思う。




Takapan
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