本

『串田孫一 緑の色鉛筆』

ホンとの本

『串田孫一 緑の色鉛筆』
串田孫一
平凡社
\1400+
2016.6.

 SATNDARD BOOKSというシリーズであるらしいが、平凡社の「文系・随筆」のジャンルの一冊である。新書のようなスタイルでハードカバー、200頁余りというから、確かに新書感覚で手にすることができる。しかも串田孫一というからには、ちょっとお洒落に、気ままに書かれた随筆であるということになる。
 編集者も大変な苦労をしたことと思われる。随筆にかけてはずいぶんと沢山のものを執筆している人であるから、そのうちのどれを、この手軽なエッセイ集にまとめればよいのか、私だったら選べない。しかも、それをどう配置するか、つまりどういう順番で並べるとよいのか、これを考えることは、天文学的な可能性のうちの一つを指定することになる。
 その並べ方のルールというものを、特に説明する様子はないようだった。本書は、何らかの意図を掲げて示すようなものではなく、評価は読者にすっかり任せるかのようであった。つまり、発行者としては、とにかくここに気ままに素材を置いてみるから、あとはどう読むか、どこから開くか、手に取った読者が決めて味わってくれたらいい、とでもいうような態度なのである。
 私は順番に最初から読んでいった。たぶん読者の殆どが、そうしたのではないかと思う。ただ、私はそこに戸惑いを覚えざるを得なかった。それは、執筆順、年代順、という考えを、完全に破壊しているからだ。
 ここには、著者が40歳くらいのときのものから、80歳を過ぎてからのものまで、あらゆる時代に書かれたものが、全く規則性なしにおかれているのだ。エッセイの名手といえども、やはりその執筆年齢毎の変化というものはある。若い頃は少しばかり知的な雰囲気が強いように感じられる一方、晩年のものになると、円熟味が増すとでもいうのか、やわらかな言葉で実に柔軟な考え方がゆったりと綴られているように見えるものが多々あった。
 含みもつ雰囲気や伝え方が、やはりだいぶ異なるのだ。それらが無秩序に並べられているとき、絵ならばタッチがえらく違う作家の作品が、たとえばピカソの若い頃と壮年期、それから晩年の作品が入り乱れて並べられている展覧会を、順路に従って歩いているような感覚に襲われるのである。川の流れがジェットコースターばりに変化するところで泳ごうとしているみたいにも思えるのだ。
 また、多くは身の回りの出来事や人とのふれあいをきっかけとして、そこから連想される世界が自由に書かれていると言えるのだが、それでも時代背景や空気が反映されている文章は少なくない。社会的な事件や思想というものも影響はあるのだが、それよりも、同じものを見ても、その時代の常識としてどのように感じるのか、の差異があるとなると、いま読んでいるこのエッセイは、どの時代のものであるのか、著者がどういう年代のときのものであるのか、を前提として了解しておかないと誤解することがあるかもしれない。それらの情報は、それぞれのエッセイの最後に添えてあるから、情報は提供してくれているのではあるが、私は個人的に、タイトルの下に最初に見せてほしかったと思った。読む方も、ある程度心構えをもちながら、その時代のことを想像しつつ読んでいくことができるからである。
 本の帯に、雀のことが大きな文字で目を惹くように掲げられている。それは、本書中程の「黒い雀」というタイトルの文章の一部であった。それは、「黒」という色について考える素振りを見せて始まるものだった。ところがすぐに、黒くなった雀のことを話すぞ、という姿勢を見せる。ここで「安保条約反対で朝の電車がとまったころ」とあることで、年代が分かりそうなものだが、後で知るに、これは1981年に書かれたものである。年代はどうやら確定できないようだ。子どもが知らせる。雀が煙突に落ちたらしい、と。出てきた雀は真っ黒である。しかも人懐っこいというのは極端であるにしても、こちら人間側としても面倒を見てやることになる。その有様がいろいろ描かれて、そこは執筆者の腕前になるのだが、その後翌日もまたその次も、雀が真っ黒になって落ちてきた、というのだ。数羽落ちることもあり、中には子どもの寝床で遊んでいるものまでいて、かなり滑稽な風景が見られることになる。そこで、本の帯の言葉が現れる。
 ――私はしまいに考えた。雀は落ちるのがおもしろくなったのではないか。
 その後、殊更に教訓めいたものへと着陸することもなければ、最後の一文を除いては、とりたてて気の利いたことが述べられているわけではない。自然に、さらりと流れるように文章がエンディングを迎えるのである。これが、46歳のときのものであるから、決して老齢の眼差しで雀を見ていたわけではないようであった。
 かと思えば、最後の「原子力と思考」は、同じように若い頃のものであるにせよ、ずいぶん社会へ向けて意義のある発言をしている。政治家への落胆をも示してはいるが、エッセイ全体に響くものは「不安」である。いろいろな不安がある。哲学のことを随所で言っているにも拘わらず、哲学的に論じたりまとめたりしようとしているわけでもない。が、かなり固い文章となっている。その最後は、次のように締め括られる。
 ――この不安の中から、人間の善意を信ずることができるような、僅かな光を正確に見届けたいのである。すがりつく糸としてではなく、人類の新しい信頼の道として。
 巻末には、少しだが「註」があり、串田孫一さんについての紹介が、教科書のような書きぶりで載せられている。また、他の著作の紹介もあり、若い人のために読書の幅を広げるような配慮があるのかしら、と思った。
 折り込まれた紙に、堀江敏幸さんの文章がある。上にある「信頼の道」を受けて、2005年に亡くなった串田孫一が、2011年の出来事と政府の対応をもしも見たら、何と書くだろうか、と自問しているのだ。きっと善意というものを信じつづけることができただろう、と。串田孫一がどう思うだろうかというもしもの世界はさておき、私たちはどうなのか、これは読者たる私たちが問われていることであるはずだ。エッセイの名手の言葉は、時に厳しく、それを私たちに問うているのではないだろうか。少しばかり違った角度から物事を見ることを、著者からここで学んでおく必要がありそうである。




Takapan
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