本

『熊野義孝説教集』

ホンとの本

『熊野義孝説教集』
熊野義孝
教文館
\1300
1981.8.

 実に地味な表紙である。渋い聖人画像に加えて、タイトル文字があるだけ。173頁で当時この価格は、ずいぶん高価に見えたかもしれない。ご当人の写真が最初にあるほかは、イラストのひとつもない。地味である。1981年というのは、そういう時代だったのだろうか。
 説教集とあるが、一つひとつがやけに短い。中には2頁で終わったものもある。  説教題はつけない主義だということで、聖書箇所が冒頭にあるだけ。そして、回り道をすることなく、ストレートに聖書からの話が始まる。福音のエッセンスだけが並んでいる。全部で45の項目があるから、それぞれが如何に短いか、お分かりだろう。
 その秘密は土岐健治氏による「あとがき」にもはっきりと書いてあるが、著者の妻であり牧師でもある方が、「まえがき」にもその事情を記している。土岐健治氏の筆記を、まとめたものなのだそうである。「説教は読むよりも聴くもの」との信念の故に、説教集なるものを出すことがなかったという。だから、この筆記は貴重である。そして、その故に、こうして他教会の人間にも、その息づかいが伝わることができるようになったのである。
 聖書箇所は、新約からが多い。旧約を掲げたときには、必ず新約も並べて掲げるようにしてある。福音は、旧約を基にして新約に至らなければ、完成しない、という考え方なのであろうか。
 私の心に留ったその言葉を、少し引用させて戴きたい。
 イエス・キリストに従うとはすなわち、この世の罪を背負い、そのために神の前にとりなしをなし、僕の姿をとってこの世に仕えたもうたイエス・キリストに従うことに外ならない。(p13)
 キリスト教が盛んになればこの世も平和になるなどとはとても言えない。(p54)
 正義とか道徳とか、おきてとかを新しくとりあげることができるようになった、というのがキリスト者の生活の原理であり、キリストに対する愛の負い目を感ずることがキリスト者の力である。(p92)
 名もない人々がさまざまな時に力を与えられて集まり、その集まりによって教会は成り立ってきたのである。(p99)
 キリストを喜ぶというのは、人間の罪や憎しみよりも強い神の愛に頼り、これを喜ぶということである。(p102)
 私たちの目に見えない人を追い求めつつ、人間の厳粛な事実を世の人々に現わし、キリストを伝えていく、これがキリスト教会の変わらない使命である。(p106)
 教会派神の住居であり、永遠の国の場所であり、私たちは永遠の国の約束を受けている集団である。(p108)
 ただ、考えなしに、自分で自分の責任を負うことなしに、世間の流行をおっている生活は、すなわち「広い門」である。(p114)
 互いに信用したり信頼したりすることなく、ただ利害関係のみで結びついている社会には倫理道徳は決して成長しない。ところが人間は神から信じられている。神が人間を信ずるというのはおかしいようだが、実は神が人間を信じていてくださるのである。(p126)
 このように悔い改めて神の許へ立ち帰るということこそ、悲しみを喜びと力とに変えるための条件である。(p160)
 短いものとしてしか、説教が遺されていないのは残念だが、お気づきの方もあるように、ところどころ文意が伝わりづらいところがある。説教を書いた本人の原稿であれば、発言者が言わずとも思っていたことが分かるのであるから、校正すると、文章が生き生きとしてくることだろう。だが、聴いた側のノートであれば、説教者の意図についてはすべてを知っているとは言えない。聞こえた言葉を記録しながら、これはどういう意味だろう、などと考えていれば、文章に乱れが生じるのはやむをえないだろう。
 しかし、聖書や教会についての、ひたすらな信頼がここに見られるとは言えないだろうか。教会としての使命も加味した言葉は、きっと説教者には必要である。教会は、ただ個人の救いだけから成り立っているのではない。ローマ帝国時代とはまた違うであろうが、肩寄せ合って信仰生活を続ける仲間の間での生き方が、その重要なテーマにもなる。世との対し方も含め、共に生きる者たちが愛の内に一致することが、どうしても教会の成立条件として、輝き出るのではないだろうか。
 説教者の意図を汲んだものはどうなるのか、さらに静まり祈り求めたとすれば、私たちはこれらの短いメッセージを、語り伝えてよいのではないか。否、こうした短いメッセージは貴重であるが故に、日常的な集まりや学びの場で、本書は活かせる道があるのではないか、と思う。まだ数冊、中古本市場には出回っているようだ。短いということを強みにして、教会で用いる道がまだありそうな気がする。




Takapan
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