本

『暦のはなし十二ヶ月・新装版』

ホンとの本

『暦のはなし十二ヶ月・新装版』
内田正男
雄山閣
\2,000
2004.2

 暦について考え始めると、不思議がたくさん出てくる。
 そもそもなぜ1月1日が決められたのだろうか。地球の動きからすれば、冬至という区切りがある。そこをスタートとせずに、そこから十日ばかりずれたところが年の初めであるという根拠は何なのか。公転周期の中で、冬至・春分・夏至・秋分という地点は明確にできる。また、それらの中間地点としての立春・立夏・立秋・立冬も理解できる。さらに一年をn個に区切って云々というのも、まだ分かる。だが、そこからどう考えても、1月1日の根拠が出てこない。
 これは、イースターに関係があるという。クリスマスが実は聖書の記事からすればまったく分からないために想像から決められたというのは明らかだが、イースターという宗教行事は、季節的にはっきりしている。ユダヤの季節的な祭である過越の祭のときにイエスが十字架に架けられたことは聖書の記事からすれば疑いようがないからである。この祭は、春分の日が基準となっている。また、キリスト教会も、春分の後の満月をイースターを定める基準として正式決定した。古代キリスト教にとって(実は今でもそうなのだが)、春分の日は重要なポイントだった。この春分が、イースター制定当時の事情により、3月21日でなければならなかったことから、逆算して1月1日が定められたのだ……。
 暦の制定には、複雑な数式による天文学的計算と理論が伴う。私などは、授業中に、一年は何日だろうと子どもたちによく訊くのだが、小学生でも賢い子は、少し考えると、365日と4分の1日だと答えを返してくる。私は大いに褒める。しかし私は、さらに正確に言えば365.24219879日なのだと話す。すると、子どもたちの目がまた輝く。好奇心一杯の眼差しはいいなあと思う。
 だが、この本は、数学的なものではない。きわめて情緒的なものである。日本人が愛してきた季節感の根拠を明らかにしてくれるわけだ。そのためには、旧暦、つまり太陰暦の理解が不可欠であるという。七夕は一月遅れの8月のほうが季節感に合っていると言い、赤穂浪士の討ち入りも太陽暦の12月ではなく真冬の雪の似合う時期なのだと語る。とにかく明治六年のときまで、日本の歴史は月の動きで刻まれていたのだ。その後も、太陰暦での生活理解はなくなったわけでなく、『金色夜叉』の有名な熱海の海岸のセリフにしても、「今月今夜」の月をくどくどと貫一が語るのは、太陰暦に基づいていないとおかしいわけである。
 月の名前から、日本各地での行事の由来などについても、話題は尽きない。実に楽しめる本である。「新装版」というから、1991年に最初出版されたものだが、内容的にはほとんど変わっていないという。ただ、暦の実例が、2004年付近の資料を載せているところなどが違うという。
 自分の生活、私たちを取り巻いている考え方などが、こうした暦というものに実に大きく影響されていることは、ふだんあまり気づかれていない。ということは、私たちが「これが正しい」と思い込んでいるようなことも、背景に前提のようなものがあったりするということになる。旧暦を知らないばかりに、間違った知識や思いこみがあり、それが人を惑わすことにもなりかめない。私がよく挙げる例だが、「五月晴れ」が梅雨の最中の一時の晴れ間に過ぎないことなど、今のテレビの天気予報からは見事に消え去っている。太陽暦の5月とは関係がないのに。だから「五月雨」の意味も不明ということになる。
 とにかく暦についての話題は、自分たちが暗黙の了解として受け容れている生活全体を捉えるために大いに役立つ。いや、そこまで言わなくても、たいへん興味深い話題が多い。季節感が薄れていくと言われる現代、私にとり個人的に大好きな本の一つと言えるだろうと思う。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります