本

『交流する身体』

ホンとの本

『交流する身体』
西村ユミ
NHKブックス1079
\1070+
2007.2.

 現象学を学び、鷲田清一とのつながりもあり、医療現場における看護ケアについての著作も多い。誠実な患者への対応を考えるその姿勢には、いろいろと教えられる。
 今回見つけたのは一般向けの本には違いないが、現場の息づかいが聞こえてくるようなレポートとなっており、プロが読んでも大いに参考になるところがあるのではないだろうか。
 サブタイトルは、「<ケア>を捉えなおす」となっており、一冊を通じて言おうとしていることはひとつでありまとまっている。読者も読み外すことはあるまい。また、内容は、看護学生と新人看護師の何人かの体験が語られるという形式をとっており、それに担当教官がリードを入れるというような感じになっている。もちろんその当事者が特定できないように工夫されているが、仮名の患者との生き生きとした交流が、ふんだんに描かれている。病室とナースステーションでの様子が、目に浮かぶようである。特に、著者自身が新人看護師だった時期に経験したこと、その失敗などを赤裸々に綴っていたのには感動した。本書の趣旨に合うとなれば、自分のことを告げておかねばならないと考えたのではないだろうか。
 長期にわたり、取材のようにして、当の看護学生や看護師からの声を継続的に得たのは、よい資料となったはずである。現場の状況とそこで彼らが得た体験は、デスクの上で理論を考えても、上から包括的に病院を眺めても、知ることのできない貴重な資料となると言えるからである。
 患者の<病い>と看護との出会い。それは病院でまず必ず起こる現象である。ではそこから何が始まるのか。近寄りがたい気持ちを、看護学生はもつことだろう。何をどう言えば良いのか。患者の痛みや苦しみは、看護側は共有することはできない。一方的にケアをするのがその仕事なのか。患者の気持ちというのはどうなるのか。治療に応じる積極的な患者ばかりというわけではない。特に、病名を知らされない事情にある患者の場合、その不安たるや想像を絶するものがある。看護師に対する不信感をもつ場合もあるし、もちたくなくても、不安からそのようになる場合もある。現場は一つひとつ異なるが、概ね看護師の悩みというものは、共通の要素をもつことが多い。著者は、そこに一つの、知っておくべきこと、あるいは心得というものを提供しようとしているのかもしれない。
 本書に挙げられた当事者たちの声というものは、ここでピックアップするよりも、本書を開いて共に体験して戴きたい。生々しい医療現場の楽屋裏は、そうそう知ることができるものではない。何も医療従事者にとり役立つばかりではない。患者として私たちはいつお世話になるか知れないが、患者となったときに、どう自分がケアされる可能性があるのかということについて、少しの見通しをもつことは悪くないと思われる。特にここで挙げられたケースでは、いわゆる不治の病いが多いのだが、私たちがそのようになったときにも、本書に触れておくことは、きっとプラスになるだろうと思う。
 もちろん医療はデータに基づくべきものであり、治療者の勘といったもので対応するような時代ではなくなっている。だが、データ集めを繰り返したとき、果たして人間の<ケア>はできると言えるだろうか。ちょうどこれを読んだとき、テレビではいわゆる朝ドラで、気象予報にまつわる物語が放映されていたのだが、そこでも、データにこだわるスポーツ選手に対して、それに関わる主人公がデータに関わらぬ心情を大切にしようとする場面があった。数字の読み取りは、現実の一部を切り取ることに過ぎない。切り取ったデータは、ある場面では確かに大きな力をもつことだろう。だが、それはやはりすべてとはならない。看護の現場でも、薬、オペ、日常のケア、それらは何よりも必要なことである。だが、そこに患者と看護師の間の心はどこにどのように働くのだろうか。それなしでは、看護はそもそもできないのではなかろうか。その看護師に体を任せることはできないのではなかろうか。
 事は、病院内で看護をする者だけに限らない。最後のほうで例として挙げられているが、街角で倒れていた人がいたとき、通りがかりの人々が取り囲んでいたエピソードがある。その場に居合わせた著者はその手当に関わった。このとき、何をすることができるというわけではないのだが、周りの人々はその様子を見守っていたし、ストールを提供した人がいて、救急車を呼んだという人もいた。病み苦しむ人の傍らに留まり続けようとしたこれらの人々、やり過ごせない気持ちでいた人々、そこに、医療従事者にとっても、<病むこと>に対する姿勢を知る機会があったと著者は回想するのであった。
 そして、<病い>がまずあって、それに対応して<ケア>が生じるというような順序、あるいは因果関係の中で捉えるのではなくて、それらが出会ったときに共に生じる経験であり、出来事であるというように見なしていくことが必要なのではないだろうか。私たちは独りで<病い>に陥るのでもないし、苦しむ人を見て<ケア>しましょう、とスタンバイするのではない。これらの出会いにより、互いにそこに現れた「他者」を伴った瞬間に、その両方が生まれるのであり、始まるのだ。人と共に生きていくというあり方が、私たちにとり如何に大切なことかを痛感させられる。
 本書は、コロナ禍の中で存在を知り、取り寄せて読んだ。人と共に生きていくことを壊そうとするこの事態は、まさに「禍」である。それは、他者との出会いの機会を遠ざけ、出来事が生じることを妨げるからである。そんな中で、感染の恐怖の中を忙殺され、しかも差別すら受ける医療従事者は、ある意味で孤独な強いられているのだということを思い、祈ることしかできない自分の非力さに打ちひしがれていた。




Takapan
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