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『幸福論 (第一部)(第二部)(第三部)』

ホンとの本

『幸福論 (第一部)(第二部)(第三部)』
ヒルティ
草間平作・大和邦太郎訳
岩波文庫
\553+,700+,600+
1961.10.,1962.11.,1965.3.

 世に「幸福論」は様々ある。先般も、三谷隆正の『幸福論』を読んでこの欄に記した。それは、自身のキリスト教信仰に基づくもので、信仰をもたない人にとってどう響くか、は微妙な路線だった。
 ヒルティは、おそらく『眠られぬ夜のために』がよく知られている。これもまた人生論に違いないが、『幸福論』は、それをいっそう「幸福」というテーマに絞り込んでいる。ひとが一番求めるもの、願うものが「幸福」であるというところから出発しているように見える。
 これは、三谷隆正以上に、キリスト教を前提している。というより、そもそもがキリスト教文化が社会の常識である環境で、聖書の中にしか幸福を求める要素がないと信じ切った著者による、自身の聖書解釈が綴られている。あくまでも、聖書を土台とした読者がいる前提で書かれているのだ。それに比べると、三谷隆正の場合は、そうでない文化土壌の日本の中で、聖書の素晴らしさをなんとか伝えようとか、楔を打ち込もうとかいう姿勢から始まっていると言えるのかもしれない。
 ヒルティは1833年、スイスで生まれている。21世紀の今から振り返れば、もう200年も昔に生まれた人である。本書は第一部が1891年に出版されている。それが好評なために、続刊がなされたといい、この岩波文庫版でも、第二部、第三部と続いている。本書の訳者が最初に訳したのが1935年である。改版前の第一刷がその年であって、上に表示したものは改版の発行年である。言葉を変更しているとあるが、21世紀に開いても、さほど違和感はない。
 第一部には、ヒルティについての詳しい解説が付いているので、本編よりもまずそれに目を通しておくとよいかもしれない。その人の人生は、幸福についての見解にきっと影響するからである。「政治家であり、陸軍法務官であり、歴史家でもあった」ヒルティは、ギリシアやローマの古典にも通じていたが、なんといっても最大の支えは聖書であった。
 解説によると、ヒルティのキリスト教信仰には、「贖罪信仰が薄い」と言われていることが記されている。同じ信仰者の目から見るにしても、独特の信仰観や世界観が感じられることが度々あった。また、訳者は最後に、社会主義の悪口を言うヒルティに対して、原罪そのような時代ではあるまい、と結んでいるが、これが1960年代初めの知識人の見解であったのだということを、思い知らされるような気がした。
 さて、エッセイとしての書きぶりは、肩肘張らず、読者もソファにゆったり座って本を開くような情景が思い浮かぶ。仕事について、世を渡る方法について、良い習慣をどうつくるかということ、時間のつくり方について、などを告げて、第一部ではひとまず幸福についての見解を「真理に対する愛と、正義にたいする勇気」を表に掲げつつ、人間はどこへ行くのか、といった大きなスケールで本を閉じている。
 だから、そこで完結しているような気持ちでいたはずなのだが、第二部になると、「罪と憂い」という項目から始まり、人間知と共用、高貴であることや希望など、思いつくままに触れてゆき、最後に人生の初段階に於いてじっくりと語りたいことを語る。
 そしてさらに続刊が期待されてか、第三部を書くことになったとき、ここにはいっそう信仰というものが不可欠であることに邁進する気持ちが出て来ている。聖書の引用が半端ないが、聖書そのものは読者は必ずもっている時代だから、これこれのことが書かれている聖書箇所は……というように、書名と章節が羅列されている注釈がどんどん飛び出す。申し訳ないが、それを一つひとつ参照してゆくだけのゆとりは私にはなかった。
 いよいよ全巻を終えるにあたり、ヒルティは、高みを目指すことを提言している。フランス革命の目指すものについては批判的で、あくまでも聖書に基づいて、人間の利他的な宗教思想を重んじている。しかもそのときの教会の姿勢には疑問を抱いており、自己欺瞞が流れているというように、ピリ辛な評価をも辞さない。
 日本人一般に、どのように響くかは分からない。最後まで読み続けられないのではないか、という気もする。しかし、日本人のクリスチャンならどうだろう。すべてに賛同する必要はないが、言おうとしていることについての理解は、難しいものではあるまい。ヒルティに従う必要はないにせよ、そういう見方は確かにできる、というように光を受けてゆくならば、読者の人生に何か勇気を与えるくらいのことは十分にできるのではないだろうか。
 3巻で、文庫本とはいえ千頁ほどもある。私は幾つかの本を並行して読んでゆくために、読み終えるまでに、夏休みに入る頃から、9月末までかかった。じわりじわりと読んだことは、その内容を記憶するというよりも、ヒルティの空気の中に留まり続けたという意味はあったかと思う。それにしても、幸福論というものは、その人の人生観そのものである。なかなか他人にはそのままには伝わらないものなのだろう。問題は、そこからその人がどう歩いて行くか、ということである。書かれた幸福論そのものがどうだ、ということではない。そこからは、読者一人ひとりの責任であり、悩みと喜びが、その人の生き甲斐を懐きながら、時を刻むのである。




Takapan
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