本

『ことばと思考』

ホンとの本

『ことばと思考』
今井むつみ
岩波新書1278
\800+
2010.10.

 英語についての学習法の本を読んでファンになった。人間の認知システム、どのように認識をするのかということについての心理学的なアプローチ、と言うとお叱りを受けるであろうか。これは私の信頼する方法である。近年は脳科学が展開しているが、物質と神経に還元してしまうのは、問題の解決にはなっていないような気がしてならないのだ。それよりも、人間学的な問いの中で、しかも一定の科学的な手続きを踏まえた、思弁的・独断的でない研究というものに、私は大いに信頼を置くのである。
 新書一冊である。多くのことを伝えることはできないだろう。だが、書くことの上手な人には共通の特徴があって、それは、ひとつの本で、読者にひとつのことを徹底的に伝えるということである。あれもこれもと欲張りはしない。これを一読で分かってもらうためにはどのように語ればよいか、が配慮されているのである。
 色の名前から入ったのは非常に良かった。扉にカラーピッカーとでも言えばよいのか、色の表があって、それが言語によってどのように区分けされるか、というところから話が始まる。実に効果的な、内容の導入として文句ない始まりであった。
 そもそも言葉とは、認識したことを分け、切り出すために使われるメディアである。ところが人により、それをどこで切るかという点が異なる。これこれの場合どこまでやってよいか、という境界線も人により価値観が違うであろうように、私たちは「赤」をなら「赤」を、どこまでそう呼ぶかという範囲が異なるのである。それは個人的に異なるとも言えるだろうが、民族や文化により、そして今回言語により大きく異なると思われる場合、歴然とするのである。そう言えば鈴木孝夫氏のもう古典と言える『ことばと文化』での、lipから髭が生えるという例は、あまりに衝撃的であって、お読みの方は心に残っていることだろう。lipは日本語の唇と同じではないのである。
 本書はこうして、助数詞の文化的な相違や方位を表す方法が違う例など、興味深い話をたくさん持ち出してくる。名詞に「性」を用いるとはどういうことか、日本人には分かりづらいだろうが、そういう文化がどのような錯覚に陥りやすいかということも、さもありなんと思われるものだった。中国での「持つ」にあたる言葉のなんと豊かなことかは、知らなかったので驚いた。たとえ中国語をご存じの方も、世界中から言語を拾って検討した著者の繰り出す例を、すべて知っていたということは、恐らくあるまい。十分愉しんで戴きたい。
 但しこうした例を出す前に、本書の考察の鍵になるある学説が紹介される。ウォーフの仮説である。それは、「人の思考は言語と切り離すことができないものであり、母語における言語のカテゴリーが思考のカテゴリーと一致する」(p61)というものである。これがやや地味に登場するので、その重要性にそのときには気づかない可能性がある。本書はこのことを検証する、くらいの勢いのよい言葉をここに書いていてくれたら、構え方が違ったかもしれないと思う。もちろん、配慮の行き届いた著者であるから、62頁にその点は書いている。だか若干地味だったというだけのことだ。
 言語が言語である以上、その表現なり音なり、見かけは当然異なるものではあるが、何かしらある事柄の認識において、普遍性があるだろうか。西洋哲学の認識論は、当然のように、彼らの認識の仕方が人類普遍のものであるという前提で思考していた。あまりに素朴に、認識はこうである、と断言するのである。それはおかしい、と理性自身を検討したカントにしても、結局は同じであった。カントの中に、ここに挙げられたような世界各地の、凡そ西洋人が想像だにしないような言語の使用についての予想はない。普遍性と多様性との狭間で、私たちは揺り動かされている。共通なものを見つめていかないと理解は進まないが、基礎語と言われる認識の基本的なレベルにおける語での共通性はかなり見られそうだが、さて、それ以上となると、文化的差異があまりに大きいようにも見えるのである。
 続いて、子どもの思考の発達という点である。これも著者の研究のひとつの大きなテーマであるはずだ。これもまた、認識論には考慮がなかった。子どもの認識は大人の認識とは異なる。また、学習により、あるいは成年に向かうにつれ、それは著しく発達する。何がどのように変わるのだろうか。極端に言うと赤ちゃんの認識はどうかというが、そんなものは当人の反応を語ってもらうわけにはゆかないからどうやって調べるのか、と言いたくなる。それが、方法があるのである。詳しくは本書をご覧戴きたい。
 言語は20世紀の思想界での大きなテーマであった。だが、西洋中心でのその議論はやはり、特殊なものに過ぎなかった。わずかに野生の思考に気づいた哲学者もいたが、それはヨーロッパ人が日本文化に触れて驚いて比較していたかつての時代とさほど変わらないような気がする。言語は世界中にある。その言語が認識とどのように関わるのか、これはこれから検討されるべき大きな課題であると私も思う。
 最後までウォーフの仮説をもモチーフとして流れてきた本書であるが、終章にて、重要な点をきちんと繰り返して、授業の締めくくりを完成する。私たちは、胃言語の者同士がわかり合えるのかどうか、非常に実践的で社会的な課題も背負っている。平和をつくるためにも関心の深い根本問題であるはずである。バイリンガルの人の認識について触れ、外国語の学習についても言及する。これが後の英語の学習法の本につながったのだと、そちらを先に読んだ私は感じる。私たちは、その言語により、世界を全く違うように切り分けて認識している。それを完全に自由に移動することはできないかもしれないが、少なくとも、相手は違うように切り分けて理解しているということを「知っている」だけでも、平和の礎となることはできないだろうか。私はそんなふうに、著者の研究を生かす道を考えている。




Takapan
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