本

『ことばが変われば社会が変わる』

ホンとの本

『ことばが変われば社会が変わる』
中村桃子
ちくまプリマー新書
\880+
2024.7.

 ちくまプリマー新書は、中高生が読めるように配慮した新書である。だから、大人も読んでよい。大人だからこそ、すいすいと抵抗なく読むことができる。著者からすればそんなに言ってくれるな、ということかもしれないが、大人こそ読んでみたいものだと私は常々考えている。
 言語学専攻の著者は、若い世代にも届く言葉を選ぶ。それは若者に媚びることではない。言葉を届けようとすることだ。
 しかし、冒頭は「セクハラ」である。これは、大人社会が基本とする語ではないのか。否、むしろそうだから、若い世代は、あまり当事者意識をもたずに、眺めることができる。その言葉が比較的近年になってからのものであることを利用するのだが、しかし若い世代は、もう生まれた時からそれは当たり前に存在している。だから、「ことばには、社会の見方を変化させる力があること」を示そうとするこの例が、果たして効果的かどうか、私には分からない。
 差別語を使うな。それはこの半世紀の基本道徳になってきている。差別される側にとり、その語が使われないのはもちろん良いことだと思う。しかし、差別語を知らないことが、必ずしも益になるばかりかどうか、疑問を差し挟む余地はあるだろうと思う。言葉を意識することが、社会を変えてゆく、という立場からすると、「使うべきではない言葉」という知識をもっていることもまた、社会を変えるかもしれない、と思えるからである。
 それは私の意見だが、本書はこの後、言語学の見地から、「言語変化」についての一定の分析的な常識を紹介する。しかも、それぞれが巧みな実例を連れてのことである。本書の中でも詳しく触れられる例をも取り上げながら、この「はじめに」では、かなり専門的とも言える言語学の常識を整理しようとしているように見える。私は、それでよかったのかどうか、まだ単純に同意できないでいる。プリマー新書を開いた若者が、この「はじめに」で「分からん」と諦めないか、ということである。
 ということで、お薦めは、「はじめに」を読まずに「第1章」から読む術である。ここからなら、理論を重ねることなく、実例で十分波に乗れる話が展開する。まずは先の冒頭の「セクハラ」であるが、「はじめに」のそれとは格段に異なり、具体的に、順を追って説明されてゆく。話に引き込まれる気がする。ここが最初のほうが、きっといい。
 これが50頁まで続く。そして、次も「男」「女」あるいは「オカマ」という使い分けである。確かに私もいつも気になっていたが、犯罪の報道は、被害者は「男性」や「女性」と「性」が着くが、犯人または容疑者を指し示すためには「男」または「女」と言う。もちろん、ある程度の社会的了解は分かるし、著者の指摘は、大人には自然に分かっていることであるとも言える。だが、そこをきちんと踏まえ、押さえながら示すのが、若者には必要なのだ。そこを読ませるというのが、腕前なのだ。
 82頁になり話題が変わると思ったら、またもそこに出てきた言葉は「女子」であった。なんだかセクハラからずっと、この「性」関係の言葉ばかりで、本書の半分まで来てしまった。さて、その「女子力」とは何か。この言い方は、元来よりも広い意味で使われるようになる例だという。
 104頁から、さらにそれを深めるかのように「girls power」が取り上げられる。これは英語では「s」が付かないというが、延々とまた「女子力」が論じられるようなものであった。
 この後、ようやく人の名に関する言葉が話題になる。姓ではなく名で呼び合う関係の傾向や、発音しにくい外国人の名について、自国読みを推奨すること、あるいは時に命じること、そうしたことの背景にある考え方である。
 そして最後に、パートナーの呼び名である。男の立場からして、自分の妻をなんと呼ぶか。テレビの字幕が、「うちの嫁が」と言った言葉を「うちの妻が」に書き換えて示すといった例をも見せながら、案外これをどう呼ぶかは難しいという事情を明らかにする。「嫁」が適さないことは誰でも分かるかもしれないが、「家内」もあまり適切とは言えない。結局「妻」というのが公平な呼び方だ、というのが、近年テレビ番組を通じてでも広まりつつある。それはそれでよいとしよう。だが、困るのが、相手の配偶者だ。相手が男であるとして、「妻」とは呼べまい。「奥さん」もいろいろ問題を含む。こうして、客観的には「パートナー」という呼び方も支持されているのだという。分からなくもない。
 しかしこの辺り、自分が自分の責任で呼び名を決める、という態度であるというよりも、日本社会ではどうやら、どう言えば正しいか、誰かが決めてほしい、という心理がありありと窺える、というのが本書の指摘である。自分で責任をとりたくない、誰か決めてよ、という具合である。そうした「正しい日本語」を、誰かの責任で決めてほしい、という心理は、もしかすると、法律や制度についても言えるのかもしれない。そして、何か偉い人が決めた制度には、陰でこっそり悪口でも言いながら、建前では行儀良く従っておく、というのが、日本語と日本人の、常態であるのかもしれない。
 これでは、社会は変わらないではないか。否、雪崩のように、恐ろしい社会に、変わるかもしれないではないか。
 たかが言葉、されど言葉。実は言葉は命である、というのが、私の手にある聖書の教えである。その通りだと思う。怖いけれど。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります