『ことばの力』
関西学院大学キリスト教と文化研究センター編
キリスト新聞社
\1600+
2023.3.
サブタイトルが、タイトルの下に、わりと大きく掲げてある。「キリスト教史・神学・スピリチュアリティ」である。こう書かれてあると、これらに強い関係があるように錯覚するが、これは研究会で7人がそれぞれに発表した内容を並べたものである。それぞれの専門分野から、それぞれの視点と関心に従って紡ぎ出された研究を集めた、という意味であるから、本書で「ことばの力」について統一見解をもらおう、と考えてはならない。論文集といった形なのである。
だが、その研究プロジェクト自体、「ことばの力――キリスト教の視点から」というものであるから、本の題に偽りはない。これは、「ことばの力」をテーマに、得意のフィールドで考えたいろいろなことを、読者としてまるでその場にいたかのように受け取ることができる、なかなかのチャンスなのである。
その「まえがき」では、このプロジェクトそのものが立ち上がった契機を説明するかのように、「ことば」が希薄化し、表層化している、というところから始まる。この命題が果たして当たっているか、それを検証するものではない。意思疎通における様々な問題が明らかになっているというし、この閉塞感の中で希望を共有する言葉を見いだそうとすることに、研究会の意義を定めているようである。
本当に、現代社会は「ことば」が上滑りとなり、互いに分断する世界となっているのだろうか。逆に言えば、それまではそんなことはなかったのか。私は、この見解さえ、簡単に言ってのけてよいものかどうか、疑問がある。旧約聖書を見ると、大国がイスラエルを一網打尽にする様が記されている。問答無用と押しつぶす戦争の残虐さが描かれている。確かに現代の戦争も、兵器の威力からすれば、古代のそれとは比較にならない甚大な被害を与える。だが、それなりに国際世論も働くし、力関係が牽制するのも事実である。問答無用で叩き潰すようなことは稀である。現代では、ことばによる意思疎通が、古代よりできていたという見方もあるのではないだろうか。
しかしともかく、本書は、キリスト教あるいは聖書が、「神のことば」を中心としている点を取り上げて、「ことば」によるコミュニケーションや理解を図ろうとするわけで、試みとしてはもちろん優れた機会となっていると思われる。
その「ことば」が、聖書の言葉では、文字や音声、あるいはそれの表す意味などを示すのみならず、そこから起こった「出来事」、あるいはそれを惹き起こす実現への力をも表すという点を重視している。神が言えば、世界はそのようにできたのだ。ことばは、神のものとしてにはなるが、放たれたときにすでに、神にあっては現実となっているのであるし、人にあっても、現実となるために現れたということになるであろう。
これからお買い求めの方のために、道案内だけしておく。触れられた題材や内容として広うと、まず「塚本虎二」についての研究が現れる。新約聖書を多く訳していまもなお出回っているもので知られている。が、案外この人物については、あまり知られていないのだという。もちろん、無教会から生まれた傑人の一人であることは有名だが、実のところ研究書などに乏しいのだという。本論文はそこを突いている点で貴重である。
ほかに、オリゲネスについて語るものがあり、教皇ヨハネス22世の「至福直感」という、ちょっと問題のある発言について、その権威というものを論ずるものがある。
イエス・キリストが神のことばである、という点に焦点を当てたものは、キリスト教の根幹に触れるものであるとも言えよう。ロゴスという言葉から、とくに宗教改革のときにどう見なされたか、それからシュライアマハーやカール・バルトに少し立ち寄って、神学の中での「ことば」の位置を確認したのであった。余りに少ない紙数でこれだけのことについて述べるのは、土台無理な話なのだが、敢えておおまかな地図を見せるというのは、読者にとっては案外親切に感じるものであるかもしれない。
そこへいくと、20世紀のドイツ語圏の実践神学に焦点を当てた次の論文は、ポイントがはっきりしており、深く見つめる眼差しを強く感じた。「実践神学」というものに関心をもつときがあったら、一度目を通しておくと参考になるような気持ちになった。
興味深いといえば、テゼ協同体について語ってくれた論文には、惹き込む力を感じた。専門家の名前が加わり立ち入った内容となるのだが、テーマがはっきりしているので、非常に読みやすい。つまり、言葉を重んじたプロテスタントと、サクラメントを強く示すカトリックとの関係を言っているのである。プロテスタントが、あまりに言葉、言葉と言うものだから、むしろカトリック側も意固地になって、サクラメントを強調したようなことはなかったか。しかし近年、それを互いに結びつけよう、あるいは近寄って互いに認め合おうとする見直しが図られている。理性的に考えてもそうなのだ。ただ、これをすでに生活の実践として行っていた集団があった。テゼ共同体である。教派を超えて、言葉をサクラメントとして、あたりまえに生活していくその試みに、「和解と連帯」の実現を希望することができるのではないだろうか。
最後には、スピリチュアルをテーマにしている。その言葉がこれまでどういう経過を辿ったか、またその言葉の使われ方により、受け止め方がどう変わってきたか、などをコンパクトに指摘する。日本では例えば「霊性」という語があったが、それでは一般の人はついてこなかった。それが「精神世界」という背景によって、「スピリチュアル」と言い換えたところ、当たり前の文化のようになっていったというわけである。それは何故か。この紙数では実証的に述べるわけにはゆかないが、私たちが考えるためのヒントが提示されていたように思う。映画のタイトルがいまではカタカナが当たり前になってきているから、スピリチュアルということも現代風な感覚で受け止めやすいものだったのかもしれない。しかし、カタカナになることで、実態を隠すというのは参考になる視点であった。それでも、実感のない聞き慣れない言葉を使うことで、こめられたニュアンスや感覚を消し去ってしまうことにより、外来語を好き勝手にこちら側のイメージで使いこなすことができる、という視点は、なかったような気がする。「霊」という言葉から無数のイメージが湧き起こる日本語とは異なり、さっぱり背景の分からない「スピリチュアル」の方が、自分たちの感覚や思い込みですら、自在にはめこむことができるのである。
あまり書くことがないものか、と最初は思ったが、口が滑り、たくさん喋ってしまった。これもまた、「ことばの力」であったのだろうか。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド