本

『だから言葉は面白い』

ホンとの本

『だから言葉は面白い』
榊原昭二
三省堂
\1,600
2003.10

 五十音順に、気ままに言葉が選んである。この選択の基準は、多分に著者の主観である。「天然」と「自然」、「批判」と「評価」のような使い分けをどう考えるかの頁があれば、赤い糸信仰、女性の男言葉のように世相の中の言葉にメスを入れる頁もある。「縦割り」と「横並び」、排除の論理など、政治的な場面で使われる言葉の説明もある。
 もし、国語学者であったら、こうした項目立てはしなかったことだろう。著者は、朝日新聞の編集委員を経験している。その中で、世相語を多く扱い、紹介しているのだ。となると、語源や文献における蓄積というよりもむしろ、社会の中でどう言葉が使われてきたかということに強い。ある言葉がいつどういう世の中で使われ始めたか、当初はどういう使われ方だったのか、といった情報を把握しているということである。
 文学文献に基づく言葉の変遷も大切である。しかし、新聞が登場した明治以降、言葉の発生は、文学を発端としないことがほとんどである。詩人のように言葉を創造する仕事をする人は別として、文学者一般は、言葉そのものを社会から借用してくることに長ける者となってしまった観がある。
「ウッソー」「ホントー」「カワユーイ」の項では、面白い指摘がある。もちろんこれらは、80年代辺りからの若い女の子の言語活動を示す象徴の言葉である。が、「かわゆい」は、新明解国語辞典における「老人語」の分類に入っているという。死語となる運命の語が、若者たちによって生命を吹き込まれた例だとしている。
「さりげに」と「なにげに」の項では、その言葉の間違いであることを、懇切丁寧に説いている。私はけっして使わないこれらの言葉は、巨大企業などがコマーシャルで洗脳するが如くに垂れ流しにしていた。若者の片棒を担いでいるつもりなのだろうが、責任は大きいと思う。いや、あまりにも無責任だ。
 この本には関係ないが、「こんにちわ」の何が悪い、と開き直り、言葉は変わるものだから自由を認めないのは抑圧であり蹂躙であると叫んでいる人もいる。NHKでもついに「十本」は「じゅっぽん」と誤った読み方を公認し始めた。これらは、言葉の変化という概念とは異なるものであり、正当化できるものではないはずだ。そんなのどうでもいいじゃないか、という大人が増えすぎた。いや、大人自身が、どうでもいいような塊に流れていっているのだ。
「せつな的」な時代の項目に書かれているように、本来その一瞬を精一杯生きることの意味の言葉が、ついには快楽主義の代名詞となりつつあるのは、象徴的である。
 他人事ではない。私自身、きっと言葉を知らない人間の一人なのだ……。




Takapan
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