『言葉の外へ』
保坂和志
河出文庫
\750+
2012.12.
文学者の著書が、「言葉」ということを軸に、思うところを各方面で述べたものを集めた本。2003年に単行本として出たものを文庫化している。新聞のコラムの連載ものと、ユニークなものとしては雑誌「将棋世界」に連載されたエッセイも一部を占めている。そこには、確かに将棋の話題ばかりだった。谷川とか羽生とか、当時のスターの名前と当時の将棋界の姿が思い出される。著者は1956年生まれだから、私より上の世代ではあるが、そう激しく異なるとも言えない。しかし、それは将棋についてであって、文学の世界についてはそうではない。著者の作品に触れたことがないので、そこに限定された文章は、味わうというわけにはゆかなかった。
だが、著者は哲学や思想にも詳しい。しかも、やたら哲学者の名前を連呼して、カタカナを並べるタイプではない。言葉についての、等身大にキャッチした感覚から零れてくる文章は、非常に刺激的で、読みやすかった。自分の肌で感じるものを、忠実に言葉にしている、というふうであるように思えた。
文学的な感覚から綴られていると実感しづらいときもあるが、哲学的な概念ならば、私はそれよりは近づける。たとえば、「自由とは光速の中でしか実現しない」(P35)などと書かれてあるとウキウキするし、その「自由と拘束」の問題を超えて「神」という存在があることを仄めかしていて、「神とは精神の臨界のその先にある何かのことで、哲学とはその認識から始まる」(P35)とあると、ふむふむとうれしくなってしまう。
そこからひとつ頁をめくると、「黙示録」が話題になっていて、またときめく。ドストエフスキーの問題意識を用いている画、そこにロシアの思想が「大地に対する圧倒的な思い」を有していることにより、「哲学でなく宗教を求めつづけた」ことが書かれていると、妙に説得力をもつ言葉のように聞こえた。
より文学的な視点だが、先のほうで心に残る文があった。「人間がまだ神を信じ、自分たちの起原を神話によって語っていた時代には、言葉はもっとずっと指し示す対象と不可分で、祈りや呪いにちかい力を持っていた。つまり言葉は世界と緊密な関係を持っていた」(P129)とあると、いま私たちの言葉はどういう位置にいるのだろう、と考えざるを得ないし、本当は「神」を掲げていることが、いま必要なのではないか、とも思えてきた。それは、かつてと同じ形であってはならない。神権政治が何をもたらしたかは、歴史の示す通りである。だが、いま神を信じないのが常識のようになっていることで、また悪い方向に全世界が突き進もうとしているのだとすれば、何かやはり神という存在に結びつくことが俟たれているのではないか、というふうにも思えて仕方がないのだ。
かと思えば、「小説もまた学校の授業と同じように形骸化しつつある」(P192)など、これだけ持ち出しても意図は伝わらないと思うが、文学をメインに、小説の行方を真摯に考えているところも伝わってくる。ここにはまた、「できるかぎり多くの疑問や仮説を出して、作者と読者がこの世界を限定して見ないようにする場所に連れていくもの、それが小説だ」(P193)という、定義めいた指摘があり、これには、私もつい拍手をしてしまった。
哲学的な問いについては、著者は以前からよく考えるところがあるらしいが、最近関心をもつこと、として、「世界とは何か」「時間とは何か」……などという問いが並べられているのは清々しい(P204)。死の問題についても何度も問いかけ、それをお気軽に解決するようなこともせず、しかしそこから逃げもせず、問うてゆく、という姿勢は、哲学的デはあるが、信仰者もその真面目さに敬服しなければならないと思う。「子どもは正解のないことを考えるのが好きなのだ」(P222)などという、昔を思い出させてくれる指摘もあったし、その中で、「詩」についても一定の方向性を定めることは、悪くない営みだろうと思われる。曰く、「使徒はただの<無>ではなくて、生命の連鎖を発見する何ものかでもあるはずなのだ。」この真摯な態度は、尊敬に値する。
もちろん、そこに「罪」という概念は入らない。キリスト者に恵まれた点があるとすれば、この「罪」との関わりで「神」を知るところなのであろう。そこで、さしあたり文学について大いに教われば、私の本書との出会いは、それで果たせるのである。つまり、「小説家は何よりも「小説を書きたい人間」なんじゃなくて、「いい小説を読みたい人間」と定義できると思う」(P237)と聞いたから、私も一種の「小説家」のはしくれに指を引っかけていてよいのだろうか、というふうにも思えたのであった。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
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