本

『ことばが劈かれるとき』

ホンとの本

『ことばが劈かれるとき』
竹内敏晴
ちくま文庫
\640+
1988.1.

 子どもの時に耳を病み、聞こえない時期があった。その時のことを綴っているとあって、読んでみたくなった。聞こえない経験をした当人からの体験談というのは、貴重だと考えたからだ。ろう者もそうだろうが、ろう者だと、ろう文化に属することが多く、手話によるコミュニケーションをとって生活していくようになると、また私たちの感覚とは違うものを有している可能性が高い。知りたいのは、聴者としての立場を保ちつつ聞こえない経験をした声である。そこには、実際聞こえないことによって何がどうであるのか、についての、聴者の聞きたい体験談がそこにあると言えるのではないかと思うからだ。
 著者は、演出家である。劇団ぶどうの会との出会いが、その道を決めていく。この「ぶどうの会」というのは私には「夕鶴」を通してなじみを覚える劇団である。中学のときに、ある事情で「夕鶴」を上演したのだが、そのときにこの「ぶどうの会」のことを知ったのだ。
 聞こえない経験があった。その演出家が、声をどのように出して伝えるか、そこに目を配る。特に、封じられた音という時期を経た中で、内に秘めた言葉が切り開かれていくべき時を待つ、そんな情景を事実見ているのだと思う。
 もちろん、目を惹くのは「劈」という漢字である。私も知らなかった。耳を「つんざく」の時に使い、引き裂くイメージがある。漢字からして、それは刃物を用いて切り裂くのだろうと思われる。秘められた言葉、外に出たくても出せなかった言葉が、ついに皮を裂いて飛び出す、あふれ出す。言葉はそのように現れることによって、伝わっていく。その人の内にあるものが開かれていく。
 舞台演出において、なるほどそうしたイメージは、素人にも感じることができるような気がする。
 そのためにも、自分が外からの音に乏しく、また自分から外へ声を発することに臆するばかりの人だからこそ、どうやって伝えるのかということについて、考えに考え抜いたに違いないと思えるのである。
 それは「からだ」との出会いからであった。劇とは何か、それは、「形が、ことばが、叫びが、生まれでる瞬間を準備し、それを芽生えさせ、それをとらえ、みずからそれに立ちあい、みずからそれにおどろくこと」であるのだという(118頁)。しかし、からだの内の変化を感じることがなければ、さらに、自分の内に向かって存在する自己がなれば、このような劇の現れは不可能である。このようにして、著者は自分が惹かれたメルロ・ポンティの思想を重ね合わせながら、ことばを発することへと思索を展開する。「世界がその音によって劈かれること」それが、「ことば」が語られるということなのだと語る(137頁)。
 このようにして、演劇論が混じり始める中に、実は哲学的思考が伴っていて、次第に中身はハードになっていく。しかしまた具体的なシーンも紹介され、たとえば「ア」の発音がどうして殆どの人がのびやかにできないのか、劇団としては致命的なほどに重要なこと、そしてその訓練というものが具体的に紹介されているのはうれしい。これは、俳優を目指す人にとり、必読書なのではないだろうか。
 そして俳優だけではない。現代人が、そもそも声を出す仕方がおかしい、という指摘があるので、その分析は万人に必要な貴重な提言であるような気がしてならないのだ。このことは、教室の教師がまずできていないというショッキングな指摘を伴うので、教育界ではより深刻なものと受け止めるべきである。他人事ではない。私もそこを意識して改めなければならないと思わされた。
 自分のためにこそ書いたのだという、「あとがき」にこめられた筆者の心は、なんと旧約聖書の「伝道の書」で締め括られる。すべての営みの中に、神の、と感じたかどうか分からないが、「時」がある、とするものである。いまという時が自分にとりどういうものであるのかを見つめる姿勢である。著者の誠実な心に肯きたい。




Takapan
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