本

『ことばと遊び、言葉を学ぶ』

ホンとの本

『ことばと遊び、言葉を学ぶ』
柳瀬尚紀
河出書房新社
\1500+
2018.4.

 翻訳者として名高い柳瀬氏は、2016年に亡くなった。言葉に対する「こだわり」が強く、とにかくまず辞書にあたる、という点でも徹底していた。新しい流行語には難色を示し、決して気軽に使おうとしないこと、マンガ文化には馴染めず相当に批判的な姿勢を貫いていたが、時代の中で何らかの価値を認めざるをえないのかしらというような諦めにも似た心情も晒していた。
 本書の中で著者の人間性と正直な思いがふんだんに溢れている。こうした本は、等身大で近づきやすい。それでいて、言葉についての知識と練り上げる強さと練達とでも言うのか、並々ならぬ努力の賜物であるほかに、どうしてもそこには天性のものがあったのではないか、と読者が妬んだところで、著者は決して責めることはないのだと信じたい。
 この本は、中学生に対して語ったことのまとめである。副題に「日本語・英語・中学校特別授業」とある。章毎に挙げていくと、長浜市立西中学校特別授業・京都競馬場PTA課外授業・久留米大学附設中学校特別授業・島根県美郷町立邑智中学校特別授業、と並ぶ。競馬場というのが目を惹くが、これはJRA理事長との関わりで京都競馬場へ、先の長浜市立西中学校の保護者や教員たちとツアーを立てて行ったときのエピソードがあるというだけである。このツアーが成立するまでに、関係者とのメールのやりとりの中に、リメリックと呼ばれることば遊びをお約束として通信しあったという経緯が中心になっている章である。リメリックというのは、五行の詩の形式でAABBAの脚韻を踏むリズムをもつものである。遊びや楽しみというのは、一定の形式の中でこそ面白くなっていくということがよく分かった。
 さて、福岡の受験産業に携わる私としては、この「久留米大学附設中学校」というのがとにかくピンとくる学校である。福岡市内からも秀才たちが続々と受験する。ここに何人合格させたかで学習塾のステイタスが決定する、そういうところである。並大抵の学習では合格しない。素質があると共に、やりきれないくらいの鍛えられ方をしなければ合格はしない。著者もそこのところを知らないはずはないのだが、恐らく私ほどには実感していないのではないかという気がする。ただ、中学生相手に、英語についても決して手は抜かない。OEDに「KURUME」という見出しがあったことに驚異的な眼差しを向けて紹介し始める。東京も京都も見出しにはならないこの権威あるオックスフォードの英語辞典に、久留米が詳しく説明されていたのだ。こうしたあとり、辞書マニアでなければ調べもしない事柄だろう。
 その上私を気絶させそうになったのは、「附設」と気軽に呼んでいる、その「附設」の言葉が現実に殆ど使われていないということだった。やっと見つけた初出は、1908年の「監獄法」の文面なのだという。と、そう吹聴していたら、その1年前山口県の図書館報告の中にさらに古いのを見つけた、そういうところまで教えてくれる。だがいずれにしても、「附設」という言葉自体がレアなのだということを知ったのは驚きだった。
 特にこの附設の生徒には、高度な英語の授業を展開する。高校生でもついて来れるかなと思しき英語の専門的なエピソード。さすがに中学生に「into」のニュアンスは厳しかっただろうが、相当難しい単語でも平気で話に取り入れる。と、この英語ということについて本書は、齋藤秀三郎という人の『熟語本位 英和中辭典』を絶賛して紹介していることに触れないわけにはゆかない。その道の方々には有名なのだろう。1世紀も前の方の本なのだが、これに勝るものはない、と断言する。確かに古くさいと言えば古くさい。しかしよくぞこの日本語を宛てた、との感動の嵐が吹きまくるし、前置詞の奥義の一端も示してくれる。これほど宣伝されたら、私も興味をもってamazonで調べてみたではないか。
 とにかく著者は、この辞書をぼろぼろになるまでマークしながら読みまくり、ついにそれが猫(著者は猫を尊崇している)が臭いと顔を背けるにまでなったので新しく購入したが、それもやがて激しく傷むのだった、と述懐している。
 漢和辞典も並々ならぬ調べようなので、正字はこのように書くのだ、と中学生相手に、誰もが見たこともないような漢字を板書して講義する。私は世代の割には、古い字を知っているほうなのであるが、それでも知らないよというような漢字が次々と紹介されてくるのであった。だからまた、これは決して中学生への手ほどきなどではない。真摯な言葉教室なのである。著者の魂のこもった授業だったのであろうと推察される。
 それにしても、翻訳者であるから、英語に詳しいというのは当然だし、日本語にするということからしても、日本語についても正確な、膨大な知識が必要であろうということも予想はできる。しかし私がかねてから思っていたように、英語の詩やレトリックというものを、その意味とレトリカルな部分とを同時に日本語で紹介するというのは、至難の業であるに違いない。そこのところのからくりをもこの本は一部紹介している。韻を踏むリズムを、その意味内容を日本語で伝えながら何か韻をもたせるということだけでも厄介であるはずなのに、ルイス・キャロルの翻訳を手がけている著者は、どれだけ苦労してことば遊びを日本語でも遂行したのか、想像がつかない。しかし著者は、自分は回文を除けば、そういうことば遊びが大好きなのであって、自分は(ユーモアを以て)天才なのだ、と紹介する。もちろん、そこに嫌味はない。読んでいて楽しいことこの上ない。実際、最後に久留米附設の生徒からの謎をこめた御礼状への返礼に、その何倍もテクニックのこめられた手紙を返している見本が掲載されているが、これにはもう感服するよりほかなかった。
 いまは久留米附設は共学になっているが、この授業の時にはまだ男子校だったようである。その授業で、たぶんいまの男子は知らないであろう、シモネタが混じった、言葉の解説を施している。そのシモネタが、本の締め括りにもう一度現れてくるというのも、オトナとしては粋な計らいであった、などと言うと、本書の教育的価値を下げるであろうか。
 ことばで遊びたくなった。楽しさを教えてもらった。柳瀬さん、ありがとうございました。




Takapan
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