本

『ことば遊びの楽しみ』

ホンとの本

『ことば遊びの楽しみ』
阿刀田高
岩波新書1019
\735
2006.5

 人気作家であり、古典にも深い興味を抱き紹介する本を書いてもいる著者が、今度は「ことば遊び」を紹介した。
 日本語としての遊びである。私も、たしかにことば遊びが大好きだ。また、いろいろなことば遊びというものがあることも知っている。教育テレビで画期的な『にほんごであそぼ』は、朗読だけというときもあるが、このことば遊びの要素も多大に取り入れている。
 駄洒落は今や「オヤジギャグ」としか呼ばれないかもしれないが、どんな状況でも、フッと笑いに導くテクニックとして、欠かせない。そもそもその洒落なるものは、千年前は見事な文学的技巧であったのだし、そのような上品な言い方を望まない人のためには、洒落を使わなかったら貴族としては落ちこぼれで結婚さえできなかった、とでも言えばいいだろうか。そう、和歌の修辞としての、掛詞などのことである。
 新書としての本書は、残念ながら、筆者の話芸を楽しむ場となっており、必ずしも、ことば遊びの通観にもなっていないし、確かな情報として信用できないかもしれないという懸念もある。だが、それは本書の価値をおとしめることはない。まさに、この本全体が、ことば遊びのようなものだ、と理解すればよいのである。
 今や、ここに取り上げられることすらなかった、都々逸さえ、それって何?と訊かれる時代である。ドリフターズの全員集合でPTAの悪評を買った数々のギャグにしても、ことば遊びの部類に入るようなものが多々あった。それはそれで、ことばを十分使い、楽しんでいたといえるのではないだろうか。
 大喜利をテレビで見ていると、そんなことば遊びが自然に身につく。今の子は、勉強には熱心だが、ことば遊びを経験していない疑いがある。そのためだろうか、福岡の西南中学校では、入試に毎年恒例として出題する問題がある。国語の大問の最後は、「ことば遊び」なのだ。
 阿刀田氏の本の中にも、日本語に堪能な外国の女性に、「これいかに」を紹介したが、理解してもらえない。さんざん説明をしたあげく、理性で納得はしたようだが、釈然としない様子が見られたという。
 西南中の入試問題の過去問を解くと、この「これいかに」に出合う。実例を十分紹介してから、いくつかの「これいかに」の前半に続くのはどれか選べ、というのである。本当なら、後半を自分で作れ、と言いたいところだが、子どもをそれほど苦しめるつもりはないらしい。いや、子どもは十分に苦しむ。さっぱり意味が分からない。それが、かの阿刀田氏が「これいかに」を説明した、日本語で普通に喋ることができる外国人の反応と、全く同じなのである。
 因みに西南中は最近、「合体漢字」まで出題した。テレビでおなじみのクイズであるが、テレビよりぐっと易しく、なんのひねりもなかった。それでも、子どもたちには困難だったとのことである。
 聖書にも詳しい阿刀田氏の、アナグラムの紹介の例を引いて閉じることにする。
 ヨハネ18:38でピラトがイエスに、「真理とはなにか」とイエスに問う場面がある。そこをラテン語で、"Quid est Veritas"という。"What is truth"にそのまま対応する。このラテン語をアナグラム、つまり文字の順序を入れ替えて別の意味の通った文にするということをすると、次のようになるのだという。"Virest qui adest"(ここにいる人だ)。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります