『[増補] 古典としての旧約聖書』
月本昭男
ちくま学芸文庫
\1300+
2025.3.
旧版は聖公会出版から2008年に刊行されていたが、それに講演五点を加えて、新たに文庫として発行した。それで、新刊として出たこの文庫を購入した次第である。
月本昭男氏は、旧約聖書の権威と言ってよい。考古学的な観点も取り入れて、聖書を読み解く。書かれたものを見ると、とにかくハッとさせられることが多い。字面と付け焼き刃の知識から、旧約聖書を自分本位に読むことしかできない私からすれば、当然である。客観的な史料に裏打ちされたその著述に触れたとき、私の目はいったい何十枚の鱗が付いていたのだろう、と愕然とさせられる。もちろん、ヘブライ語などの古典語文献の知識と、その深い独自の指摘があるからのことである。
そういうわけで、本書への期待は高かった。学術論文であれば、とても私などには読めるものではないだろうが、これは講演集である。十分な説明のゆとりをとって語られているものであるし、一話完結でテーマもはっきりしている。読みやすいことこの上ない。但し、講演とはいえ、聖書関係の国際フォーラムや、学会や研究会での講演である。中には、無教会の全国集会で語られたものもある。無教会といえば、聖書研究にかけてはただならぬ情熱を傾けるグループであり、そこで語るとなると、よほどの力量が要求されるはずである。事実、著者はその場で「任が重い」という言葉を以て話を始めている。社交辞令とばかりは言えまい。
旧約聖書における大きな問題を取り上げることが多い。しかも、それは聖書を読む者にとって、関心が深いテーマであるから、聞き耳を立てる程度の関心ではない。旧約聖書というものを大きく捉えることもあるし、「愛」というテーマ、「苦難」とは何か、ホセアから聞く歴史の問題、創世記のヤコブの生涯の意義など、実に興味深い。物語の「構造」に関する理論を、聖書の中の物語に適用するところも、たいへん面白かった。
それからよく言われていた、一神教へのある種の偏見に対する弁明は、じっくり掘り下げる意味では、類を見ない発言であった。時に、キリスト教関係者は、一神教への批判にいきり立ち、ムキになって反論をすることがある。そして聖書を引用し、その解釈は平和なのだとか、東洋の宗教を逆批判するとかいうのを、幾度か見てきた。本書では、自然破壊や環境汚染についての批判と、独善的排他主義についての批判とについて、少し距離を置いた形で検討する。確かに、一般によく言われるキリスト教批判は杜撰である、という点は認めながらも、キリスト教を特に擁護するためには語らない。そして、旧約聖書でそもそ一神教という形をとるようになったためには、その背景というものがあるのだ、と説明を始めます。案外とそうなったのは、旧約聖書の歴史の中でも後半においてだ、というのである。事実、カナンに入ってきたようなイスラエルの中では、多神教が混じっていた。実のところ、主なる神ですら、そうした神々の一人と見られていたふしがあり、他の神々と共に礼拝されていた、と見られる証拠もあるのだという。しかし、弱小な民族には、世界創造の眼差しをもつ普遍性があった。それと調和するためには、選民思想という考えが表に出るようになっていったのである。そして、確かに創世記の、例の「土を耕す」という人類の仕事において、それは「仕える」という言葉なのだ、という指摘は、最近でこそよく言われるようにもなったが、だから暴力性を一神教の属性のように決めることはできない、とする。この点において、一神教と多神教を比較するという「立論事態が実質的な意味」をもたない、と判定するのである。そこには、宗教的多元主義という新たな見方を重ねてゆく必要もあるわけだが、元来何かを「絶対化することをゆるさない信仰」であったはずだ、という方向で結んでいる。安易な悪者づくりではなく、どの宗教に相対していたとしても、人間が自らを問わねばならないのであろう。
ギリシア神話も持ち出しながら「友情」について考察するところも面白かった。旧約聖書における「友情」と「隣人愛」とのつながりには、驚かされた。ヘブライ語の「友」を表す語は、同時に「隣人」をも意味するというのだ。現代人の目からだけでは見えてこない風景を見せてくれるというのは、実にありがたいものである。「友情論」は、従って「隣人愛」として伝えられ得るものとなる。但し、それが人間の世では、しばしば「同胞愛」へと限定される危険があるという。「愛国心」は逆に敵への「憎悪」に裏打ちされているのである。
先にも挙げたが「愛」と「苦難」についても、幾らでもここでご紹介したいほどの内容であったし、人がその父母を離れて妻と結ばれる、というのは、言葉としては、「父母を見捨てて」いるのだという指摘にも、インスパイアされたものである。
旧約聖書の「契約」が、昔話の物語であるのではなく、いま現在の人間、そしてこの私と結ばれるべきものである、というのが、聖書の適切な読み方だ、ということを、こんなにも理知的に教えてくれる本は珍しいのではないか。礼拝説教では常道となるその話が、旧約聖書を丁寧に読むことになり、極めて常識的なものである、ということも、本書から学びたいところである。どうしてもそういうことが分からないままに、「牧師」となって「説教」している人もいることから、老婆心ながら触れておきたいと思ったのであった。

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