本

『子どもを伸ばす手仕事・力仕事』

ホンとの本

『子どもを伸ばす手仕事・力仕事』
辰巳渚
岩崎書店
\1365
2007.9

 子どもの運動能力の低下が浮かび上がれば、スポーツチームを作ろう、とくる。手先が不器用な子どもが増えたと報じられれば、細工教室を開こう、とくる。
 過保護なのか、おとなが何かやりたがっているのか、その辺りの事情は私にはよく分からない。
 子どものために、何かをしなければならない、と思いうろうろするほど、おとなは暇なのだろうか。
 著者は、よい視点をもっていた。昔の人はいろいろなことがきちんとできた、というのではなくて、昔の人はこういうことが身に付いていたのだ、という理解である。それが生活の普通のあり方だった。生活するということは、それをするということだった。それだけのことだ、というのだ。
 つまり、昔はよかった、ではないのだ。今「生きる力」と呼ばれるようになった、どこか郷愁めいた響きのある教育目標は、生活するというひとつひとつの行為のことだ、と具体的に示してもよいかもしれない、と感じた。
 この本には、生活の中でするべき行動のひとつひとつが、そのやり方とともに、丁寧に書いてある。右の頁が子どもに読ませるための文章で、左の頁が親が、という形式になっているが、私は、これ全部を親が読むべきものだと突きつけられたと感じた。あるいは、これから親になろうかという、成年に達したような若者もすべて。
 なぜなら、右の頁には、難しい漢字が多々あるのに、振り仮名もついていないからである。子どもに読ませると見せかけて、これは、すべてのおとなに味わえと突きつけているものだと私は感じた。意地悪い見方だと言われるかもしれないが。
 ここにある、生活における様々な業について、私は、それ相応に身につけているつもりだ。完璧などとは言わないが、殆ど知らないということはない。だが、それらができているかどうか、つまり実生活で今やっているかどうか、と問われれば、残念ながら、消え入りたいほどの思いに包まれる。ずぼらな私は、これらのことを、今全然やっていないに等しい。その気になればできるから、子どもの家庭科の宿題の悩みを解決するために、腕をまくって、こうだ、と示すことはそれなりにできるのだが、日常の中でそれを続けて実行しているわけではない。「生きる力」は、潜在的にあるのかもしれないが、実際にはたらいていない、ということだ。
 まことに、お恥ずかしい。
 子どもに伝えたいどころの騒ぎではない。これは緊急である。おとなの私たち、皆が読むべきである。それでいて、この本をマニュアル化して、さあこどもに生活力を教えるために……などとやりはじめたら、これは最初の暇なおとなの仲間入りとなる。
 要は、こどものために、などと悠長なことを言う必要はないのであって、いますぐおとなたちが、自分たちの生活を立て直さなければならない、ということなのだ。私たちが手ずから生活を築いていく覚悟をもち、実行することなしには、私たちの「生きる力」さえ滅んでしまうのである。そうすれば、いったい次の世代に、何を残すことができようか。
 お勧めは、左頁下のコラム「おばあちゃんからの一言」である。著者はまだお若いのに、十分な「生きる力」を以て、このコラムも投げかけている。ここの味わいが、実は生活する力の決定的な部分ではないか、と私は感じている。




Takapan
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