本

『個性という幻想』

ホンとの本

『個性という幻想』
ハリー・スタック・サリヴァン
阿部大樹編訳
講談社学術文庫2703
\1150+
2022.10.

 1892年から1949年を生きた、アメリカの精神医学者。死後、大きな評価を得、特に社会と精神医療との関係について見直されることがあったという。
 近年は、脳との関係が盛んに取り沙汰される。しかし、社会との関係を脳で測ることができるのか、という反省も聞かれる。その中で、再び近年注目されているのだ、ということで、訳者は独自にサリヴァンの講演などを集め、ここにひとつの作品集を築いた。思い入れのあるその編集は、訳者の解説がそれぞれの原稿の冒頭に置かれ、その原稿の意義や背景について簡単に触れておき、それから本文が始まるという形式をとっている。
 本の題名のものは中程に置かれ、訳者が言うには「最も論争的な文書である」のだという。誰もが個性をもつのは当然であるという私たちの常識に、問いを投げかける。そもそも「個性」とは何だろうか。それはあるものとして、つい「慣習的」に分かったものとして使っていたのではないか、と問いかけられると、哲学を少しでも知る私もまた、立ち止まらなければならない。
 頼りない「個性」で人間を考察して、何が善くなるのか。社会が、国家が、善きものになりうるであろうか。人類は、人それぞれの中の「共通項」により捉えられて、求められるものではないだろうか。この社会性は、本書の最後のほうまで貫かれる。つまり、戦場兵士の精神状態を鑑みて、国家に尽くすための精神医学である方策である。これは、さすがに今の私たちが聞くと、引いてしまいそうになる。戦うために精神をどう抑え、ためらわず人を殺すことが出来るようになるのか、という問題のようにさえ聞こえるからである。
 だから、確かに「個性は幻想だ」というテーゼは、過激ではある。しかし、その背後に、精神医学を以て人間社会をなんとかしようという挑みがあったものとすれば、それはそれで一つの起爆剤として有効であったのだ。
 人類はどうなるのか。そこまでいかなくとも、これから世界はどうなっていくのだろうか。いやいや、「個性」こそ尊い、という呪縛を、私たちは受けて居るのかも知れない。基本的人権の尊重が憲法のようになり、そのために多様性を大切にするのが最大の善であるかのように、私たちはいま思わされていないか。しかし、多様性や自立などといったフレーズを掲げて生徒を教育している学校が、どれほど生徒を束縛し、圧力をかけて生徒の声をもみ消しているかは、もはや自明であると言ってよいだろう。いかにも美しいかけ声は、自ら威圧的に振舞う側の自己満足になることさえあるのである。つまり、語る者の立場の無自覚さと、いじめなどしていないと言い張る心理があるとすれば、「個性」といった美談の看板が、同様に何か悪しき者に利用されるものとなっていないかどうか、問うだけの価値はあろうというものである。
 もちろん、サリヴァンの話していることは、このような単純な思いつきのようなものではない。命懸けの臨床や様々な人との出会いと研究との末にもたらされた爆弾ではある。その議論は、本書に直接触れて戴きたいものである。
 サリヴァン自身、同性愛を幼い頃から自覚していたのだという。だから、分析の中でも時折「異性愛」という言葉を使う。私たちが当然と前提し、時にそれがすべてだと思い込んでいるものが、ひとつの事例に過ぎないというように、「異性愛」の例として挙げられるのを見ると、サリヴァンの議論は、まさに2000年を超えて、息を吹き返すのは必定であったのだろう、という気にもなる。
 二つの大戦を経験して、サリヴァンは、戦争に走る人類の性格について、否定できるようなものではない、と見たのかもしれない。ユダヤ人差別はよくない、という建前を聞いてそれでよしとするような無責任な私たちに対して、反ユダヤ主義の憎悪がいかに根深く人間たちの中に住み込んでいるか、サリヴァンの指摘に思い知らされる気がする。実際、ヘイトスピーチはなくならない。偶々一部の者たちから出るそのヘイトは、人類の中に巣くうものを暴き出している、と自覚しなければならない。
 綺麗事にならないもの、そして実は一部に目を瞑っていながらそんなものはないと嘯いているような私たちの腹の底を知るならば、美しい「個性」などという後で自己愛に浸っている場合ではないのだ。サリヴァンの言い分とは違うかもしれないが、私も、その問いかけに、そのように応えなくてはならない、と思わされた。
 当時の社会を背景にした主張もあると思われる。だが、このような視点を提供してくれたサリヴァンの期待を背負い、いま私たちは、戦わねばならない。戦争という手段ではなしに、自分たちの中の悪魔的なものと。そう、「私たち」は。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります