本

『殺された側の論理』

ホンとの本

『殺された側の論理』
藤井誠二
講談社
\1600
2007.3

 真っ白な表紙に掲げられたタイトルの下に、《犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」》と記してある。
 いくつかの事件において被害者のを家族から出した方々の苦悩を、ルポしたライターによる、渾身の著者である。それはまた、被害者の家族の方々の叫びを代弁するものなのだろう。
 こういう本を読むのは、本当に心が痛い。殺された側は、恰も社会から棄てられるかのような現実に、憤然としつつも、なんとしても差し上げられない哀しさを抱く。
 加害者は、生きているばかりか、国から手厚くもてなされ、病気もただで直してもらえる。そのために、病気をただで治してもらいたい輩が拘置所に入ることをたくらむこともあるという。被害者は、金属の台に載せられた「モノ」として扱われ、治療費などが全額請求される。家族は奇異の目で囲まれ、誤報道に名誉も傷つけられたまま、何の言葉も返せない。加害者は被害者の住所も知ることができるが、その逆はできない。ために、被害者側は恐れてもうその場に住めない。犯罪のあった家は安く叩かれてしか売れないのであっても。
 被害者支援という美しい言葉で寄ってくる政治家は、わずかばかりの金を差し出すことで、逆に死刑廃止論を、犯罪に遭わなかった多くの投票者たちに振りまき、人道主義者としてまた選挙に当選しようと目論む。ニューヨークの貿易センタービルにおけるテロの被害者の、百分の一程度の金ですら、少しばかり前までは、まったく出されることがなかった。
 あげく、ここには、警察に子どもを殺されたという話もいくつか入っている。とくに一つは、明らかに警察が直接の原因となっているにも拘わらず、嘘の報告で逃げまどっている。たまたま目撃者が現れて、嘘を言い張れなくなっているが、ことさらに処罰はない。当の本人は、警官こそやめたが、一種の天下りをして楽々と暮らしているという。
 裁判の席も、検察の営みも、犯罪被害者を黙らせて、加害者を護ることしか考えていないかのようにさえ見えてくる。事実はそうではないのだろうが、凶悪犯罪については、とくにその傾向が強い。つまり、被害者は、社会からはじき飛ばされるのである。
 私はいつも言う。「いじめ」はなくならない、と。そう、社会の構造がまさに「いじめ」なのである。そして、自分がいじめていることについて、誰も自覚していない、ということだ。奇異の目を向け、ときには残酷な言葉で慰めているつもりになっている、市井の私たちが、実はいじめていることに、気づいていないのだ。
 3人以上ならまずいが、1人くらいなら殺してもセーフだ、とする常識がまかり通っている。覚醒剤を打って殺人をすれば無罪になる。あるいは、わずかな禁固で済む。そんな現実が、まかり通っている。真面目に生きてきた人が、謂われなく無惨に殺され、その家族も心労で倒れる。加害者はぬくぬくと笑い、国費で食べ、せいぜい数年で社会に戻る。被害者の住所を知る彼らが、どんなに恐ろしいものか、そして再犯したとしても、それを認めた裁判所も国も誰も、責任をとることもない。
 こうした、「殺された側の論理」を、余すところなく綴る本書は、私たちの社会の「いじめ」の現実としても、自分の問題として広く読まれてほしいものである。
 犯罪の周辺にいた人の心のケアはさかんに取り上げられるのに、被害者自身やその家族には全く何もケアがなされていないに等しい現状が、私たちの姿勢を顕著に物語っていることを、知らなければならない。




Takapan
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