本

『これからの哲学入門』

ホンとの本

『これからの哲学入門』
岸見一郎
幻冬舎
\1200+
2020.12.

 NHKの100分de名著という番組で、アドラー心理学を解説してくれたことで私は著者を知る。しかし一般には、『嫌われる勇気』というベストセラーでよく知られているのかもしれない。もちろん、それもまたアドラー心理学によるものである。
 しかし元来研究者としてはプラトン哲学を学んでおり、後にアドラーと出会い、心理学方面に入っていったようである。そして看護系の学校で心理学を教えるなどもしているという。まことに、看護の上で心理学の果たす役割は大きい。そして精神医学の重要さというものを、私は災害やコロナ禍における他の論文集にて痛感させられた。なにしろ医療従事者のメンタル面を支えるということが、すべての医療を守っているとも言えるからである。
 ところで本書は、叙述は非常に地味であり、図解や冗談を期待することはできない、とまず述べておく。そして「哲学」というものがひとつのステイタスのように憧れられているというのは、ある意味で好ましいが、そこに何かしら難解な知識を知って自慢したいというような色気が入ると、本書は失望する。  本書は、まことに分かりやすい言葉で、日常の中のちょっとした気づきや思考によって、ものの見方が大いに変わりうる、人生観すら変わりうる、ということを体験できるひとつの道である。
 あまりに説き明かしが巧いために、ある人はすっかり魅了されてしまうかもしれない。それも悪くないだろうと思う。他方、それだけでよいのかな、と思う人がいてもいい。ただ、悪い影響を及ぼすようなことはないだろう、と私は感じた。
 副題に「未来を捨てて生きよ」と掲げてある。これは少し衝撃を与える。いったい何のことだろう、それでいいのだろうか、と思うならば、書店の思う壺であるかもしれない。それでいいだろう。
 未来にしか希望をもつことができないのだとすれば、私たちの希望というものは空しくなることがあるし、それが実現しなかったことが逆に失望をもたらす。よく引用されるが、フランクルの記述の中で、収容所に入れられたユダヤ人たちが、クリスマスには解放されるだろうという根拠のない希望を懐いたために、それが実現しかなったときに、精神的にか身がもたず、次々と命を落としていったのだという話、これを本書は大きく取り上げる。希望は未来にあるものとして待つのではなく、いまここにあることができる、という考え方が有効であることを、こうして語るのである。
 書かれたのは2020年。つまり新型コロナウイルスの感染拡大の中である。だから、アドラーについての著作の数多い著者ではあるにしても、まともにコロナ禍の中における心理というものと向き合い、そこにアドラー心理学からもたらされる希望を告げようとするものであろうと思われる。が、アドラーに基づくとは言えない。プラトンによるとも言えない。それらは随所で顔を出すのであるにしても、著者はいまここから自分が考えていくということを大切にしている。だから読者もまた、その思考の道を伴ってほしいと願っているのだと思う。共に考えていかないか。考えないか。同じものが見えるならば著者はうれしいだろう。だがきっと、全く同じものではないにしても、同じ方向から希望を懐くことができるのであれば、拍手を惜しみなく贈るのではないかと思われる。
 哲学者の思想を解説するというものではない。あくまでも、私たちの生きる生活現場、職場などでの経験、そうしたものを基準にしている。そこから何が見えうるか、それをテストしているようにも見える。
 構成としては、短いひとまとまりの話が続く形で、一つひとつにタイトルが付けられているので、読みやすくなっている。また、重要なテーゼはゴシック体にしてあり、そこだけを心に残していくことにより、要点が掴みやすくなっている。もちろん元来、本読みにとってはそのようなものは要らないはずだし、私が自分の本ならマーカーや傍線を引きまくる箇所なのであろうが、著者が伝えたいということが明確にされるのは、分かりやすさという点でも好ましいかもしれない。いち早く、読者が知りたいこと、知らねばならないことを覚知するというためには、親切すぎるかもしれないが、よいことなのかもしれない。
 驚くのは、実に様々な、私たちの気になっている事柄に触れられているということである。人工知能はどう評価すべきなのか。コロナとは「戦う」相手ではないということ、運命とは何か、パワハラやヘイトスピーチはどうして起こるのか、子どもはほめて育てるというがそこに問題はないのか、生きがいとは何か、自殺とはどういう心理なのだろうか、結婚とは何か、など興味深い話題が目白押しである。東京オリンピックのためのボランティアについても、批判的な眼差しが投げかけられているが、これは2021年の会長発言によるボランティア辞退の混乱の現場にもそのまま投げかけられてよい見解であると考えられ、ちょっと唸ってしまった。その他、愛国心を押し付けてくる者の歪んだからくりや、オウム真理教に取り憑かれたエリートたちの問題などもあり、盛りだくさんであるが、著者本人が実は大病を患った経験があることや、親の死の話などが背景にあることで、これらがただの空理空論でなく、しみじみと噛みしめられる思索であることも伝わってくる。
 申し訳ないが、著者の授ける知恵についてここで書き並べることはしない。本をお読みくださるためである。一続きの物語のように読んでもよいし、目についたところから拾い読みしてもよいだろう。毎日少しずつ読むのもよいかもしれない。ひとの生き方に何かしら支えになるものや、それまで気づかなかった角度から見える人生の風景に、新たな道を見出すスタートを与えられるかもしれない。
 但し、ここにも少し触れられるが、信仰というものによりそれが与えられることがあることは承知の上で、著者は、信仰によらない考え方を提供している。信仰がない中で、どのように人生を見るか、ということに徹しているため、宗教に抵抗がある人ももちろん読めるはずである。が、信仰をもつ人が読んだところで、信仰の妨げになるものではない。著者にそのまま賛同するにせよ反発を覚えるにせよ、辿ってみて損はない道であることは確かである。




Takapan
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