『この夏の星を見る』
辻村深月
角川書店
\1900+
2023.6.
新聞連載は2021年6月から2022年11月までだったという。そこに、西日本新聞の名があったのには驚いた。夕刊だった。夕刊はとっていない。朝刊の小説は、私は読まないが、妻は必ず読んでいる。その妻が、この本を読みたがった。というのは、2025年夏、この物語が映画化されたのに、見るチャンスを失ったからだ。そして、私も妻に続いて読むこととなった。
最後は483頁目にわたった。分厚く、重い。しかし、読むことそのものはすうっと読めるのであって、苦にはならなかった。
物語は、天体観測をする中高生たちの交流を描く。もちろんここで粗筋やハイライトを明かすことはできないが、設定くらいはよいかと思う。茨城の砂浦第三高校、東京渋谷のひばり森中学校、長崎は五島の泉水高校。それぞれに、個性豊かな子どもたちが並ぶ。というより、もともと子どもたち、そして人間は、それぞれが異なるものだ。異なる環境で育ち、それが偶々ひとつの学校という場でつながったに過ぎない。様々な事情を抱えながら、星というひとつの目標のために集まって、心が通い合うのである。
しかしなんといっても本作の設定上、コロナ禍というものが際立っている。だからこそのこの物語なのである。自由に活動ができない学校生活の中で、これまたいろいろな形で「天文部」に寄せられてゆく。その中で、コロナ禍だからこそなのかもしれないが、イベントや活動が次々とできなくなったゆく。その中で、リモート環境で出会うことができたのが、先の三校である。
これは余談だが、テレビドラマでも、こうした本でも、九州の人間を登場させるとき、やたら九州の方言を、特に語尾を中心に混ぜてくるのは何故だろう。関西の人は、関西のアクセントを関東でも簡単には消さない傾向があるが、九州の人間は、関東の人を相手に話すときに、方言丸出しで喋ることは、まずない。「ばい」とか「げな」とかを付けて九州人であることを示したいらしいが、それは基本的に、九州を知らないことを暴露するようなものである。何かぼそっと言うときに出ることや、ちょっとした癖として出してくるとか、仲間内で方言で話すとかいうのはよいが、常々そんな調子で話すことはない、ということを知らないのには、いつもがっかりする。
さて時折、星についての会話があるわけだが、一部を除いて穏当な知識であり、顧問教諭など知識のある人がいくらか穿った見方を呈するにしても、現れてくる知識がそれほど専門的なものではない。逆に、だからこそマニアックにならずに済んだのかもしれない。少しばかり星について興味をもったことがある人ならば、知識的に何かが増すということはあまりないだろう。
彼らは、天文部の間でゲームをすることになる。星を観測することにより、得点を定め、それを競うのである。「スターキャッチコンテスト」という。その肝腎のコンテストの細かな内容は描かれなかったが、そこを示すのが物語の目的ではないからであろう。勝ち負けが決まるにしても、それが目的ではないのだ。
一度夏にそれを実施するが、その後生徒の事情が判明し、もう一度やりたい、ということになる。今度は、ISS(国際宇宙ステーション)の観測である。そこで明らかになる事情が、物語の最後の、ひとつのどんでん返しということになるのかもしれないが、物語自体は至って平板であり、特に盛り上がりがあるわけでもない。ただ、心の交流がいい。味わうならばそこだろう。
となると、ここで「コロナ禍」というものがどういう必然性があるのか、ということも振り返ることができるだろう。確かに、コロナ禍の故に、リモートという手段が用いられ、鈍い活動中で、遠く離れた地で、普通ならば交わることのなかったであろうような生徒たちが出会うことになる。だが、コロナ禍についての描写が特にあるわけではない。患者が出ました、というアナウンスが地域にあっても、登場人物たちはさほど深刻さを感じていないようだ。つまり、活動が不自由になる、というデメリットは意識されるものの、自分たちの生命の危機という、あのとき誰もが「まさかね、でももしも」と考えていたような恐れめいたものが、どこにも出てこなかったと思うのだ。ただリモートとそれによる出会いという場だけを演出したものの、コロナウイルスそのものに対しての医療保健的な関わりというものが描かれていないように思うのだ。
もちろん、ストーリーの中心がそれでない、というのは分かる。だが、執筆が連載され始めた2021年6月というのは、新規感染者数が東京だけで4000人を突破しており、全国で一万人を超えている。感染そのものに対する恐怖感はかなりあったはずである。だが、子どもたちの関心は、ひたすら星と、互いのほのかな感情のようなものに集中している。
どこかリアルさがない。生命に関わる自体を、どこか客観的に突き放して見ているように感じられてならないのだ。
逆に言えば、そういう時期に、突き放したような書き方ができた、という意味では、作者は秀でたものである。後に、生命の危機からは少し距離を置いた立場でこのときのことを思い出す時代を想定して、そのよう描いたとするならば、さすがとしか言いようがない。
映画は観ていないままに、記している。きっときれいな星が映し出されていることだろう。私は夜空に関しては、映画にはいつも失望している。そもそもその時刻にその形の月がその高さにあるはずがないとか、三日月の向きがおかしいとかいうことはしばしばであるし、星空も、現実でなくイメージだけでピカピカ光っているだけ、ということはもう当然のことのようである。この作品の映画については、きっと適切な監修がついて、矛盾した描写はきっとなかったであろう、と期待している。
生徒たちは、コンテストのために、望遠鏡の作成から始めなければならない。あの時期、大型店舗が自主的に閉店しており、専門店もどれほど望遠鏡の素材を提供できたか知れない。まして、夜間に観測活動をする部活動ということが、多少の規制があったことは描かれていたが、本当にそれほどまでにできたのかどうか、私には分からない。こうしたリアルさを考えるのは、この物語がファンタジーだとするとおかしいということになるのだが、それでも、物語としての読後感からすれば、実に爽やかで思いやりに満ちた人々だけである。ヒールもいないし、特別な問題が起こった形跡もない。
新聞小説というのは、そういうものなのだろうか。そうやって楽しめば、きっとよいのだろう。心が洗われるような気持ちになるのは、確かだと思うから。

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