本

『心の傷と癒し』

ホンとの本

『心の傷と癒し』
ソン・ボンモ
栗城貴宗訳
サン パウロ
\1000+
2006.5.

 イエズス会の神父による著。韓国の方である。どうかすると神学的な読み物が心地よい私ではあるが、かつてはこのような「霊的な」本をも愛した。でもこういうのばかり読んでいても、それだけでは救われたり聖められたりするわけではない。そりゃあ信仰の立派な人はそうだろうよ。だけどね……と呟きたくなるものである。あるいは逆に、うんうん分かっているよ、クリスチャンはそうあるべきだよね、などと言って、けっこう自分にもそれができているかもしれない、などと自負することもあるだろう。
 だが、もう分かっているよ、というような態度を取ると、人間はどんどん駄目になっていく。時折こうした、「霊的な」本に触れて、自分の心の状態、魂のあり方に関心をもつべきだろうと思う。
 テーマは癒しである。心の傷の癒しである。そしてその極意のようなものは、ここで簡単にまとめを提供して伝えられるものではなく、実際に本書で体験していくのでなければならないと思う。それでも、本の紹介をするのがここでの義務である。
 一番伝えなければならないのは、人間はそう簡単に赦せるものではない、と言ってくれていることである。それも、赦さなくてもいい、というところだ。そうでないと、誠実なクリスチャンならなおさらのことだが、赦せない自分はだめだ、信仰がない、などと落ち込んでしまうことであろう。しかし本書は、そうではない、と繰り返す。現実的に、赦すことが単純にできるはずがない、と言う。さらに言えば、そのときに使う「赦す」という言葉の位置がたぶん違うのである。「赦すという行為」と「赦したと感じること」の違いを知っておかなければならない(p43)のである。私たちにできるのは、信仰の名のもとに相手を赦そうと心に決めることだ、と本書は告げる。
 そうして、自分を愛する気持があれば、人をも正しく愛することができる(p82)とも言う。多くのキリスト者が、実は自分自身に対する愛が不足していると指摘した後である。自分を否定するのではない。この自分を受け容れること、そうしたことがないと、神の声すら、届かないのではないか、とも言う。傲慢なこと、自己中心的なこと、利己主義、そうしたものとは違う意味で、自分を愛することはきっとできるし、できなければならない。自分自身を正しく見つめ、自分をいたわり、自分を大切にし、自分に責任を持つというようなことをそれは言うのだ。
 こうしたことの説得にかけて、著者は巧みな比喩や実例を挙げて伝えにくる。これがまた心地よい。それはまた、自身傷つき果てた経験があればこそなのだろうと思う。
 それはショッキングな祈りであった。巻末に、「赦しを求める祈り」という祈りが数頁にわたり掲載されている。これはひとつの架空の祈りの例であるかのように書かれているが、著者自身の祈りなのではないだろうか。しかしそれにしても、そこにある生々しい人の姿は、ある意味でおぞましい。身の回りの人々の実像としか思えないものだが、中には妻や子のことがあるから、神父としてそれはないだろうと思うから、やはりいろいろな人のケースをそこに含めているのだろうと思う。告解で聞いた話なのだろうか。それを明かしてよいのかどうか、こういう形ならよいのか、そうしたところまで詮索するのはおかしいだろうが、ここにはとにかく、様々な憎しみや毛嫌いや、だが深刻なのは、自分がずいぶん酷い目に遭ったという事実であり、それでもなおその加害者に対して、赦そうとする思いの告白が並んでいる。それは本書の全体を、ひとつの祈りという形でまとめたようなものとなっている。
 時折、もしかすると誤解を招くような表現や、読者の置かれた状況に鑑みて、受け容れがたいような言い方をしているところがあるかもしれない。なかなか万人に同じように響く言葉を準備することは難しい。その点、ヘンリ・ナウエンはそういうところが殆どないように感じられるので、これはまた特別なのだろうか。それとも、ヘンリ・ナウエンの本ですら、人によってはカチンとくるところがあるのだろうか。それはともかく、本書でも、どうか「霊的に」読んで戴きたい。それは、読む側の霊が調えられるということでもある。こちらの心が穏やかになれば、きっと「霊的に」読めるのだろうと思う。そのような本として、余りに傷ついた人にはきついところがあるかもしれないし、どうしても赦せない実際があるかもしれないにしても、自分の心をやがて癒し、良い道へ導いてくれるひとつの道案内として、味わうことはきっとできるだろうと考えるものである。大切なことは、本書が聖書となることではない。本書が、聖書を案内してくれるだろうし、イエス・キリストの愛こそが、あなたを癒すだろうということだ。そのためのガイドとして本書が、良き友になってくれるかもしれない、というように私はお薦めしたい。赦すことは自分のためだ、という、下手をすると引っかかってしまうかもしれない言い方の中にも、神からの恵みを覚えることができたならば、それでよいのではないだろうか。




Takapan
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