本

『心』

ホンとの本

『心』
姜尚中
集英社
\1200+
2013.4.

 自伝的な初の小説『母 ―オモニ―』から三年、再び漢字一文字のタイトルの作品。実話であるようには思えないのだが、筆者自身が登場するし、筆者の経験も重なってくるために、すべてが事実であるとしても違和感がない。つまり、リアリティがあるのだといえる。
 小説であるだけに、その展開上の謎のようなところを暴露するつもりはない。せいぜい、これから読む方に魅力をもってもらえるような紹介の仕方ができたらと願っている。  作家としての姜先生のサイン会に、ずかずかと現れた青年が置いていった手紙、そこからこの物語は始まる。親友の死を経験して悩んでいるというその手紙。私姜尚中は、青年にメールという形で返事を送る。ここから、2人のメールでの対話が続くという設定である。
 連載時は、「新・君たちはどう生きるか」という題であったというが、それに大幅加筆や修正を施し、本作品は「心」という題で出したのだという。元のタイトルは、実はたぶんこの小説の内容に適切に即していると思う。まさにテーマはそこにあるだろうと思うのだ。しかし、「心」だと、物語がどこに行くのかを隠してしまうことになる。もちろん、これは夏目漱石の「こころ」を意識していることは間違いない。姜尚中氏自身、夏目漱石にはただならぬ愛着をもっている、というような言い方をすると失礼だろうか。2013年にはNHKの「100分de名著」で夏目漱石の「こころ」を解説している。そして、「先生」と青年との交わりと手紙、もちろんそれは今の時代で電子メールとなったのであるが、一人の女性を親友と同時に好きになるというあたりや、物語が最初から死のモチーフをずっと底辺に流しながら展開していくところなどから、夏目漱石を知る人ならば当然、不吉なものを感じるはずであるし、ドキドキ感が否めないのである。
 冗長な表現も多いなかで、恋愛相談に乗る私であったが、青年の心の苦しみの告白を受けて第一部が終わると、第二部がいきなり場面が変わる。まさに死の世界が描かれることになる。そこで青年は、生きることとは何なのかを探っていくことになる。姜尚中自身も青年のような経験があったはずだ。その自分の見たこと聞いたことなどを青年の体験として盛り込んでいるものと思われるが、なかなかリアルである。
 その一方で、青年の恋に進展があるということになり、青年の恋愛の舞台である演劇部を巡る出来事の中で、演ずる劇を彼らが演ずるかのような巧みな構成を以て物語は展開する。しかも、その劇は途中で、第二部を迎えたことで、すっかり書き換えられた脚本になるのである。
 メールの文面で人生論を説くばかり、確かに吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を思わせる設定で、元の題でも申し分ないものとなっていたのだが、決してそのやりとりは退屈しない。どうなるんだろうという落ち着きのなさが読者の心に生まれる。できる限りハッピーエンドで終わってほしいと思いながらも、私姜尚中が心に抱える不安が決して消えないままに流れているので、読むほうも嫌な予感が漂うままに頁をめくるしかないのだ。これは仕掛けだったと解釈もできるだろうが、それは結末部分で、多分に納得のいく形で判明するであろう。漱石の「こころ」は2人の人間を自死への追い詰めるが、こちらの「心」は、果たしてどうだろうか。
 生と死という問題がテーマであるから、亡くなる人は現れるし、自分の中の良心か何かとの闘いも決してスパッと解決されて終わるわけでもない。「心」はそう簡単に分析され、問題が解消されるというものではないのだ。ただ、希望はある。希望は、もう先生が語りかける故にもたらされるのはない。むしろ先生のほうが、青年に助けられていたということに気づかされるのである。
 筋道の細かなところやからくりを明かさずにお伝えするというのは難しい。これだげてもうある程度予想されるような書き方をしてしまったかもしれないが、だとしても、人生を真摯に考えるならば、そして誰かを愛することについて考えたいならば、そしてまた生きることへ希望をもつことを求めるならば、2人の対話の世界にしばし身を寄せるのは、とてもよいことではないかと思う。もちろん、クリスチャンとしての作者の故に、聖書の言葉も僅かに助けとなる場面があるが、非常に控え目である。だが、聖書が私たちに呼びかける声が、そこに重なってくるように感じた私である。同じ感覚をお持ちの方は、いらっしゃるだろうか。




Takapan
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