本

『子どもは判ってくれない』

ホンとの本

『子どもは判ってくれない』
内田樹
洋泉社
\1,500
2003.10

 痛快だ。自分の中でもやもやとしていたものが、はっきりと形として目の前に表されたものだから、なんとも言えない快感がある。
 いきなりである。たいへん長いまえがきの中で、それは起こった。正論というものは誰に対しても語られていない、というテーゼが提示されるや、私は拍手を送った。
 また、そういう正論は、人の――ともすれば自分の――不幸が成立したときがいちばん幸福なのだという逆説めいた指摘も、私が言いたかったことの代弁のように思えてならなかった。
 現象の背後にある思考法が明らかになることほど、私が面白がることはない。
 ハラスメントの真の効果は、その呪いにあるという説明も、愉快に聞こえた。
「身体を丁寧に扱えない人に敬意は払われない」という言葉も目についた。自分を愛せない者が、他人を愛するわけがないというのと似ている。自己義人をするというのはよろしくないが、自己容認をすることは大切だと思う。何もかも自己犠牲の上に為せというのは、どだい無理である。結果としてそうなることに異議を唱えるつもりはないが、自己犠牲を強いてやらせるのは、危険な信号である。
 評価すべきは、次の指摘かもしれない。
「自分が100%正しくて、相手が100%間違っている」という前提で議論を続ける人と、「お互いすべての意見には間違いがつきまとうが、この意見でやれば間違いが一番少ないのではないだろうか」という方針で議論を続ける人とでは、まったく違う。そういう指摘も、的を射たものである。ときに、前者の論調は、痛快で面白い。だが、それは危険であり強引でもある。牧師の中にも、産経新聞の論調が面白いと絶賛する人がいるが、残念ながらこの新聞は前者である。意見の合わないグループは最初からすべて間違いであり、ばかげているという前提に始まり、それに終わる体質である。情報操作するならこのタイプである。
 マスコミには、しばしばそのタイプがまかり通る。そして自分の何もかもが正解そのものであり、他の人の考えはすべて受け入れられていないと妙な自身をもったりする。自分では「正論」を吐いているつもりだというのが、実は一番傲慢で自己中心であるということについて、この書は改めて教えてくれた。
 それにしても、戦争についても極めて具体的に現実的に考える眼差しがあり、それを余すところなく本に載せていくことになるというのは、けっこう分かりやすいので評判となろう。
 哲学的な思考にすべてが基づいているとは思えないが、社会科学的に、哲学をうまく使っているようには見える。人間同士で争うのは何故かを懸命に多角的に捉えようとする姿勢の結集が、こうした本で実ったのかもしれない。
 著者の立場には、賛成する人もあるだろうし、反対する人もあ私たちとしても、著者の主張そのものに対する制限なき傾倒をするわけではない。さりげなく、対処していきたいとは思う。




Takapan
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