本

『ここに薔薇ありせば 他五篇』

ホンとの本

『ここに薔薇ありせば 他五篇』
ヤコブセン
矢崎減九郎訳
岩波文庫
\520+
1953.7.

 2020年にリクエスト復刊という形で新装版が出たので、それを入手した。この本は、リルケが絶賛して、「若き詩人への手紙」の中でこれを読めとしきりに薦めていることで知られる。というか、それで知った。
 古い訳ではあるが、言葉自体はそうした近寄りがたさを感じさせず、非常に美しい訳に見えた。尤も、これは私が旧字体についてなんら違和感を覚えないからであって、旧字を知らない人にはとても読めたものではないかもしれない。「情」の字の旁が「」なっているくらいなら困る人はないだろうと思うが、「失禮」「銃聲」「正當」「眞晝」など、一つひとつひっかかりながら読むとなると大変かもしれない。
 ストーリー性というよりも、やはり表現や言葉の選び方が美しいと思った。なにげない北欧の風景かもしれないが、日本に住む私からすればどこか夢の国のような景色が思い浮かぶ。不思議な文化、人の考え。異国情緒も、自然の中に描かれたそれは、何かしらお伽噺のようでもある。
 人の登場が唐突で、誰が重要人物か分かりづらい時もあった。また、あっという間に時間が経って、世界ががらりと変わるような展開も、ねちねちと時間の中で言葉を紡ぐ傾向の強い最近の物語に慣れていた身としては、戸惑う原因となった。でも、楽しめることは楽しめる。だんだんその不思議な世界に身を投じていくことが快感となってゆく。
 どうしてこんなにも簡単に人を好きになれるのか分からない情況もあったが、目に見える世界の美しい描写は、そんな心の機微を気にすることなく大きく包み、風景の中のひとりの人生を浮かび上がらせ、そしてそこに切なさを覚えることも教えてくれた。哀しみを超えて、新たな光を見出す歩みに、こちらも勇気づけられるものであった。
 人の死が、都会ではさもしく偏狭な心理劇から生じる憎しみによることがしばしばあるが、自然の中で見る人間の心の機微は、それが自然の中に当然あるものではないか、というような錯覚さえ起こさせる。何から何まで、この広い世界の中の出来事として、大きく捉えるべきものとして迫ってくるのだ。
 2020年復刊の計画は以前からあったのかもしれないが、なんといってもタイムリーだったのは、「ペルガモのペスト」だったと言えよう。ペルガモの町にペストが発生した。その恐怖の心理を描くとともに、人々が教会に向かうという風景がある。祈りが捧げられ、断食が布告される。だが、ペストは止まない。すべては無駄であった。このペストは人間の罪悪なのか。それは2020年にも考えた人がいたことだろう。人々の愛が冷えていき、自分本位になってゆく。そこに、奇妙な行列が現れる。黒い十字架と赤い旗を掲げている。懺悔の歌が聞こえ、血の気のない痩せた者たちの行列を、町の人々は不安に見守る。彼らが教会へ向かおうとすると、人々は、自分たちが責められるのを恐れ、それを妨害しようとする。しかし彼らのミサは何か狂っている。わざわざ笞を打ち、血を流す。そして人々に、地獄のことを説教する。そして、われわれのために十字架にかかって死んだイエスなどはない、と繰り返す。教会は不安に包まれた。人々はその説教者を、十字架につけろと叫ぶ。しかし彼らは笑い、去っていく。こうして物語は閉じられる。ある意味で不快な感情を私たちに遺したまま、物語は閉じられる。
 ヤコブセンは自然科学をよく学んだという。それでこのような無神論的な考え方をもつようになったともいう。信仰を勧めるものでもないし、むしろ人の思いの通りにならない人生を思い、男女様々な立場に身を寄せて、様々な角度から描いていく。読後感がよくないものが多い。人生の淋しさは、まだ40にもならないままに、独り身のまま死んだ作者の人生の中に常にあったものなのかもしれない。人の心の交わりが必ずしも関心事ではなかったが故に、自然の情景を美しく描写できたのかもしれない、と思うと、美しい言葉のために殉教した一人の作家の生涯に、ひとつの尊ささえ覚えるような気がした。




Takapan
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