本

『古カトリック教会の形成における国家の役割』

ホンとの本

『古カトリック教会の形成における国家の役割』
有馬昭平
キリスト新聞社
\1800+
2011.4.

 キリスト新聞社の出版であるから、素人のものを安易に出版はしないだろうということで、それなりに読みやすいのかしらと思って手に取ったが、なかなか骨の折れる本であった。
 副題に「エドモント・フッサールの現象学の近代哲学史上の新紀元」とあり、とくに後半はフッサール哲学の解説が中心のようになっていた。フッサールについて私は表面的なことしか知らない。どうしても、カントからハイデッガーの路線に向かいがちであり、本来たいへん重要なその間をとりもつフッサールは踏まえておくべきであるのだが、私がそれをさぼっていたためである。
 また本書は、1970年代から80年代にかけての、学生運動のあった時代の論考を集めたものであるらしく、元来一冊の書物としての体裁をもったものではなかったという。政治的な関心の中で記された様子を見せつつ、前半で、まず4-5世紀のカトリック教会のことを取り上げ、次にはルネサンスと宗教改革期、そしてピューリタン期が描かれると、一気にフッサールに没入するのであった。
 フッサールを説くためにデカルトの近代哲学の原理が取り上げられるのは、もちろん悪いことではない。しかし、何か違和感があった。あまりに平板に、デカルトを偉大な原理だとして掲げすぎるのである。デカルトの著作を開いてみると分かるのだが、多才で病弱なこの思索者は、ひとにものを教えるのがうまく、現場で様々な言い回しを繰り返すことで、説得を試みるような述べ方を得意とする。つまり、カント以降のような大学教授が、論理的に構築された著作を作ろうという向きでなく、読み物として魅力あるものにしようという気持ちを強く感じるものである。デカルトのコギトエルゴスムを、そこだけ取り出すと、確かに哲学原理を打ち立てた、という哲学史上の説明になってしまうのだが、それは論理的には曖昧なものであり、「方法的懐疑」と呼ばれるごとく、極端な言い方をすると舌先三寸で言ってしまったというような面もあった。もたろん、哲学的に衝撃的な提言であったし、そこから世界の見方において自我というものが明確に意識され、ルネサンスを踏まえた人間中心主義が一気に、ひとつの方向に傾いていったことは否めない。しかし、それほどその自我論は、近代を支配し尽くしてよかったのだろうか。フッサールはそれに対抗したかのように描かれているのも分かるが、ある意味でしょせんデカルトのアイディアに引きずられてそのフィールドで抵抗しているに過ぎないのではないか、という見方も可能だと思うのである。これを克服すべく立ち上がった、身体や野性を取り上げ、また構築された理論を突き崩すものとした20世紀の思想界の成果も、まだまだ西欧思想の範疇でのいざこざであると見る意地悪な批評もあるのではないだろうか。
 言い忘れていたが、著者は東京神学専門学校に終戦の年に入り、卒業後に開拓伝道から始めた牧師である。社会福祉の分野でも活躍され、さらにまた牧師としての職を全うしている。そこで、こうした哲学の学びを踏まえて、神学的な意味づけを当然考えているわけで、あるいはまた、神学の言明のために、学んだフッサールを用いていこうとしている、とも考えられるわけである。そのとき、生活世界や志向性といった哲学用語をふんだんに用いてくるわけだが、果たしてそれが成功しているのかどうか、私には判断がつかない。私は、なるほどそうか、と膝を叩くような経験をついにもてなかった。私の理解が鈍いせいであろう。だが、哲学用語を振り回しながらも、どうもそれがこなれていないように感じられてならなかった点は、呟いていてもよいかと思う。その解説も決してすんなりとはいかない。ということは、筆者自身、十分哲学を消化していないのではないかという危惧を感じるのである。ほんとうに消化した人は、論文でもない限り、難解な用語を並べるだけのような述べ方をしないものだ。やむをえず用いはしても、必ず噛み砕いた、読者に届く言い方を心がける。哲学を、難しく語るのは簡単なことであって、哲学を易しく説明することが最も難しいのである。
 こういうわけで、本書のエッセンスを、せめて大学生が聞いてすっと呑み込めるようにまとめてくださる方がいらしたら、むしろそこから聞いてみたいと思った次第である。




Takapan
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