本

『子どもの目線』

ホンとの本

『子どもの目線』
尾木直樹
弘文堂
\1890
2004.6

 サブタイトルは「臨床教育相談を考える」とあった。
 冒頭から主張されているように、これはスクールカウンセラーの問題だとばかりに思っていた。私は個人的に、専門のカウンセラーに頼らないのが教師というものだと思っていたので、ちょっと抵抗を感じた。
 最初のほうは、どうしても、専門のカウンセラーの話のように感じられた。だが、どうやらそうでもないぞということが分かってきたのは、本の後半からであった。そして、現場での経験も含めた考え方をもっている著者の姿勢に共感を覚えたのは、むしろ本の終わりのほうであった。
 タイトルと本の前半が誤解させていたようだ。これは損なサブタイトルの付け方かもしれない。この本は、教師自身が生徒とどう向かい合って行くかの大切な心構えを教えてくれる本だということに気づけば、最初から飛びついていたと思う。
 さて、そういうわけで、私が心動かされた箇所を幾つか引用しよう。
――「命の大切さ」「死の意味」などは、教師が生徒に「語る」ものではなかったのです。その辛さや悲しみをありのままに受け止め、心のフィルターを通して表現・表出することだったのです。(186頁)
 ある生徒の突然死を契機に、生徒たちから教えられたことをレポートした話の最後にありました。これは教師にしろ牧師にしろ、心を指導する人の鉄則だと思った。
――「自由と民主主義、人間の尊厳を確立するためには、多少不自由で強引で、人間性を軽んじることがあってもプロセスではやむを得ない。少しの間ガマン」というような受け止め方が、心の奥のどこかに眠っていたことを認めざるを得ません。(189-190頁)
 もちろんこの考えは否定されるべき事柄でした。イラク相手に戦争を起こしたアメリカや、追従した日本の指導者の思想はここにある通りのようですが。
――この"子どもに頼る"感覚が習得できれば、教育や子育てが楽しくて仕方なくなります。(195頁)
 教師が想定した像へ現実をなにがなんでも近づけるのではなくて、教師はもはや力まない。子どもたちに相談することにより道が拓かれることもしばしばあることが示されると、著者のアドバイスの中にいつしか「子育て」が入り込んでいる。この小さな挿入は意味が大きい。子どもに任せる、いやもう一歩進んで、子どもに頼る。これが親の心情の楽さにつながり、また子どものためにも喜ばしいこととなるのだ。
――学校が子どもに「指導」と称して求めているものの中には、この種の"責任逃れ"の強制が何と多いことでしょうか。管理主義の本質とは、実は教育の成果を求める方法ではなくて、まさにこのように行政や管理職、個々の教師の"責任逃れ"のための便法に過ぎないのです。これらをすっかり削ぎ落として、心と血が通った子どもと教師の関係を創り出すことが今、緊急に求められているのです。(215頁)
 誰かの歌にあったように、歩きなのにヘルメット、というような事態を解説しての言葉である。事故が起こった場合に責任を逃れられるように、そんなことを指導するのだ、とはっきり書いてある。人権とか自主性とかいうスローガンを掲げておいて、実はそれが単なるポーズに過ぎず、人権感覚は却って子どもたちの生活に根ざした中に生きているとまで述べている。
 サブタイトルに、通常の「視線」という言葉を用いず、敢えて「目線」という俗な言葉を用いたのは、子どもたちが見ている対象という意味ではなく、見ている子どもたちの立場そのものという意味を強調したかったものだと思われる。
 試験対策のプリントを私は配って演習させていた。中2のある男の子が近くの子とぺちゃくちゃ喋り続けたので私は注意した。見た目は突っ張っているが、素質はかなりあって、その気になればちゃんと問題が解けるというタイプの生徒だった。私が黙るように再三言うと、「こんな紙切れなんかじゃやる気出ないんだよ」と呟く声が聞こえた。私に強くアピールしたかったわけではないが、つい本音がこぼれたのだ。私はそれ以上言うのをやめたが、それは、彼の心情が私の痛みとなったからである。たしかに、彼の言う通りなのだ。適当なプリントをつくって皆に配ってさせておくのは、ある意味で教師にとって楽なことである。小一時間声を嗄らして喋り続ける必要もない。時間の半分は浮かすことができる。彼が見破ったのは、そういう教師の狡さだろうか。いや違う。彼は、通常の授業には驚くほどの関心と集中力を見せる。家で宿題などはめったにしないが、授業には積極的に参加する。そんな彼の呟きの意味は何だったのか。私の推測に過ぎないが、彼は直接的な対話や「応答」といったものを強く求めていたのではないだろうか。子どもにプリントを自学自習させておくのではなく、つねに教師からの熱い説明が欲しいのだし、教師に質問して答えてもらうというやり取りが、彼の欲していることではなかったのだろうか。紙に過ぎない問題プリントと配布される解答プリントといった無機質的なものではなく、尋ねれば答えるといった言葉のやりとりや、自分の努力への評価を、無意識のうちにその中学生が求めていた、そのように私は想像するのである。
 この本は、さまざまな実例を、中学校での体験として多く記している。中学校の教師は、こういうところにも、一つのよいお手本が存在することを知っておいてよい。私は、その多くが痛いほどよく分かると言える。特に本の後半がお薦めである。




Takapan
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