本

『子どもも一緒の礼拝』

ホンとの本

『子どもも一緒の礼拝』
鞭木由行
いのちのことば社
\1155
2012.3.

 新書状なので、若干価格は高いかという気がしないでもないが、なかなか他では聞かれないような声も含まれており、刺激的で、役立つことが多いと見た。
 副題は「たしかな信仰継承をめざして」となっている。年齢を重ねて引退の時期が見えてきた牧師にとり、この信仰継承は実に不安な要素の一つであることと思う。子どもたちが教会に見えなくなったからだ。教会学校そのものを閉鎖に迫られたという教会は例外的でない時代となっているのだ。
 言い訳のように、こう言う人がいる。「少子化だから仕方ない」と。また、「塾やスポーツで日曜日も子どもたちは忙しいし、レジャーもいくらでもあるのだから」とも。
 私は違うと言いたい。確かに、戦後のブームのように、何百人も教会に押し寄せるような時代と比較するつもりはない。あれはまさにブームであって、それが常態なのではないとしておくほうが健全だ。だが、少子化とはいえ、教会のある小学校区には、たいてい何百人と小学生がいる。塾に日曜日に行っている子どもは、実のところ決して多くはない。スポーツクラブもあるが、ぶらぶらしている子どもが何十人といることはほぼ確実である。何百人かもしれない。
 つまりは、教会が子どもたちにとり、魅力的でなくなっているのだ。自分とは関係のない場所になってしまっている。それは、子どもたちのせいというよりも、教会の構え方のせいであると言ったほうが適切である場合が少なくないことだろう。
 それは悲しむべきことなのか。いや、だからこそ、教会が蔑ろにしてはいけない子どもたちがいる。それは、信徒の子どもや孫である。これは幸いなことに、ある程度親に依存する形で、教会に同行する機会が多々ある。中には、ほんとうに毎週教会に来ている子どもが、いくらかはいるのだ。彼らが、中学生あるいは高校生になるときに、教会から離れていくという姿を、「部活があるから仕方ないね」「受験生だから」と、これまた理由さえつければ納得する年寄り感覚で、教会の大人たちが、卒業する生徒を見送るような眼差しで手を振っているというのであれば、キリスト教会の未来はどこにあるといえるだろうか。
 こうした観点は、私がかねてから警告してきた事態である。だが、まるで政治家のように、役員たちは先送りしてきた。心から祈ってくださる教会員は、まだありがたいほどである。礼拝には子どもの声がない。あれば、うるさいということで、追い出される。いや、その親共々追い出されるに至る。そしてその子どもが、教会に自分の居場所がないと感じて離れていくときには、「いろいろ忙しいからね」と送り出されてしまう。
 この問題を、悲観的にでなく、プラスに転ずるようなあり方と共に、強く突きつけてくるような発言が、本という形で明確に出てこないだろうか、と私は待っていた。実のところ、なかなかないのだ。教会が変わらなければ事態は変わらない、と言い切れる強さを、従来のキリスト教世界は禁じていたのだ。あるいは、そう言わせない島国的な空気が、たしかに教会業界にあったのだ。
 口先だけでは説得力がない。あんた実際に子育てやってみな、と言われれば何も言えなくなる。かといって、ただく苦労話だと、大変だったねえ、で終わってしまう。現実の経験と、理論と、両輪が求められる。その点で、待ってました、と言いたいような本が、この『子どもも一緒の礼拝』である。
 私も微力ながら、この路線で提案し、実行してきた。子どもも礼拝に普通に集まり、牧師の説教時に分かれて、別の礼拝をもつ、というものである。ただ、この著者は、その私の遂行している方法には否定的である。それは、聖書に根拠をおく。古代イスラエルの律法において、子どもは礼拝に関して、大人となんら差をつけられていなかったと主張するに値する様々な記事を引用しているのである。子どもが、教会「学校」で学ぶ、というのが目的ではない。もちろん、ただ「遊ぶ」のでもない。そして子どもの「礼拝」をおこなうのだ、というこの辺りまでが私のしてきたことだったのだが、著者は、その「礼拝」は子ども向けの別物ではなく、大人も一緒の礼拝、つまりは家族ぐるみの礼拝であるべきだ、というのである。
 言うのとやるのとでは大違いである。実際にこれを遂行すると、教会員の様々な無理解や苦情が出て来ることになろう。従来と思い切って変わったことをすると、特に年配の方々は、いい気持ちがしないものである。明治期の、欧米の教会のスタイルが当たり前となっている今の日本の礼拝形式は、古代イスラエルでの常識ではなく、19世紀欧米の常識こそが真理だとして、ここまできてしまったのだ。著者は、新たに換えるのではない、旧きに戻るのだ、聖書の原点に戻るだけだ、と繰り返す。そして、現に著者の牧会する教会で、実現してしまったのである。
 もちろん、それがゴールではない。しかし、概ね教会員の声は賛同しているようだ。そこもこの本の中で明らかにしている。ただ、これは、教会に姿を現す子どもたちが少ない時代だからこそ成り立つ方法である、という。古代イスラエルのように、家族という単位で教会に集うやり方の中で、できること、言えることなのである、という。他方、家にキリスト教信徒がいない家庭の子どもたちが教会に出入りすることがないのか、というとこれもまた哀しいことで、そういう子どもに対しては、同じ礼拝というのがやや厳しいものに映ることかと思われる。そこで、そういう新たな子どもたちに対しては、また別扱いですることが望ましい、と著者は言う。
 また、著者のやり方は、大人も子どもも予め分級を行い、その後11時あたりから一緒の礼拝を献げるということになるのだという。その詳しい内容について、ぜひご購入の上で、この本から受け取って戴きたい。
 信仰の継承は、切迫する緊急重要事項のはずである。だのに、先送りはともかく、自分の生きている間はまあいいか、というような大人の姿勢により、子どもが礼拝から弾き出されているとなると、これはもはやキリストに生きている人のすることではない、とも言える。だが、それはしばしばある現状である。うるさいから礼拝にくるな、では、障害者を追い出すのと同じ現象だとも言える。もちろん、急に一緒になるだけですべてがうまくいくことはないし、事実騒ぐ子どものその親が、心苦しいことだろう。具体的にどのようにするとよいのか、それはまさに、この本の中で辿りながら読者が見出していくべきものである。
 繰り返すが、信仰の継承は、最重要課題であり、緊急を要することであるはずだ。政治批判をする暇があったら、教会における自分のあり方を省みる必要があると言えるだろう。それほどに、子どもたちをどうするか、もっともっと真剣に問い直さなければならないと切に思うのだ。たとえば著者は、子どもそのものというよりも、子育てをする母親を明確なターゲットとして意識した伝道方法がひとつの有力な方法だ、と説く。子どもに対する決定権をもつと言える母親を教会で受け容れるのでなければ、子どもは教会に結びつくことはないかもしれない、と言うのである。こうしたアイディアの一つ一つを、私たちは自分の教会でどのように捉え、そして自分たちがどれほど変貌できるのかを、問い直されているような気がしてくる。
 私もまた失敗の数々の中に数えられる一人である。だからこそ、これらは他人に対してというよりも、自分自身に対して、胸を打つように絞り出す言葉である。




Takapan
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