本

『孤独力 人間を成熟させる「ひとりの時間」』

ホンとの本

『孤独力』
津田和壽澄
講談社
\1,500
2003.9

 一方では、引きこもりなどの問題が、昔流行った「暗い」青年として取りざたされ、気味悪がられる。「明るい」輩が集まって、何をするか分からない彼らについて論評する。他方では、むしろ引きこもりのほうがよいのではないか、と反論してくる。世間に調子を合わせるのでない、自分自身の生き方をするのだ、などと。
 アンチという形でこのように、孤独な立場を擁護する意見も現れる。だがいかんせん、彼らはわあっと集まって一つの勢力をつくるようなことをしない。2ちゃんねるのように互いにカキコしていても、しばしば反発し合っている。それは、各自が各自の考えをもっているという、よい面と認めることもできよう。
 さて、この著者は、自らひとりでいることの快さを幼いときから十分感じ取って生きてきた女性である。それを、日本語では「孤独」と呼ぶが、それには2種類あることをしきりに指摘する。「ロンリネス」と「ソリテュード」である。前者は、悪い意味での孤独、つまり寂しさやひとりぼっちというあり方で、社会から見捨てられた者というイメージがつきまとう。後者の「ソリテュード」こそ、著者の推奨する「孤独」のことである。集団の圧力から解放された気持ちやすがすがしさをそこに呼び込む。英語には、この2種類が区別されて使われているのだそうだ。
 なぜ「みんなといっしょに」しなければならないのだろう。なぜ「みんなといっしょの」ものでなければならないのだろう。しかし幼稚園にしろ小学校にしろ、著者にとっては息苦しい、「いっしょ」が強要される現場でしかなかった。もちろん、著者の意見は、人からすべて遠ざかってよしとするような考え方ではない。訳も分からずただ「群れ」の中に身を置くことで安心しようとする日本人のスタイル。そこへ、自分はこう思う、という素朴な当たり前のことが言えないような仕組みの組織。どうして、こんなにも孤独でいることが怖いのだろう。
 様々な実例をもとに、孤独の楽しみ方が積極的に展開されていく。およそ著者が理解できるあらゆる手段を使って、その「ソリテュード」の必要性が説かれていく。でもそれはまた、同じ一つのことが別の形で繰り返されていくのでしかないゆえ、一度読者が理解できれば、流れるように最後まで導かれてしまうであろう。途中には、かなり具体的に、実生活で「孤独」を楽しむためのアドバイスも刻まれている。
 広報誌に、福岡市の少年サポートチームの代表のコラムが載っていた。「長崎の12歳の少年の犯罪」についてほとんどが割かれた、かなり長い文章だった。そもそもここで「犯罪」と呼んでいることからして、認識の甘さまたは偏見が現れている。すぐ本人も「刑罰には問われない」と記している以上、それは「犯罪」と言い放つのには問題がある。この人は、ほんとうに少年をサポートする気持ちがあるのだろうか。以下、少年の孤独を理解しようという姿勢は微塵もみられず、ひたすら「親の過剰な愛」つまり甘やかしが、「少年の自己中心的性格の形成を助長した」と述べ、「対人不適応」が「孤立経験、不登校、引きこもり」となり、それが「少年犯罪の要因」だと印象づけている(因みにこのコラムはしつこく「〜ではないだろうか」と一見やわらかく書かれているが、断定しているのは読めば明らかである)。そして、「子供のやさしさ、たくなしさ、我慢強さを育むと同時に、自主性、協調性、社会性、とりわけ、人命尊重の心、人間愛をどう育てるかを見直し、子育てすることがわが子を非行や犯罪に走らせない道ではないだろうか」とお役所言葉が羅列する中で、私は、「自主性」と「協調性」とが平然と並べられていることに憤りを覚えた。どういう神経でこれを並置するのか、理解できない。いずれにしても、こうしたタイプの少年とその親の心を突き落とすことばかり書き並べていることに、サポート代表と称する本人はまったく気づいていないということが、パラドックスのようで悲しい。
 この本の説明からまったくもって離れてしまったようだが、こうした役所が自ら少年をサポートしているという自己愛に浸っているのとは事なり、この本の場合は、集団の暴力や圧力に心が傷ついた体験者が、やがて一人になる時間の大切さを肯定して立ち上がっていく中で身につけた知恵がふんだんに紹介されているため、むしろ癒される思いがするとして、お勧めしたかった。
 とはいえ、クリスチャンは、こうしたソリテュードをすでに毎日の生活の中で役立てているはずである。「祈り」とはまさに、ソリテュードの究極の姿なのだ。しかも、人間的なソリテュードは、ただ自分の中の心と自問自答するという方法でのみ次の世界を開こうとするものであるが、神との霊的な交わりを意味する「祈り」によるならば、ある意味で自分でもあり、また創造主たる神でもある対話の相手というものが成り立つことになる。孤独でありながら、全世界とつながってゆくことになる。「祈り」はすばらしいリフレッシュでもあるのだ。著者は写経の効用は説いているが、残念ながら「祈り」こそ極めて日常的でありながらこのソリテュードを完成するものであるという点については、気づいていないように見えた。




Takapan
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