本

『人が孤独になるとき』

ホンとの本

『人が孤独になるとき』
並木浩一
新教出版社
\1900+
1998.6.

 説教と講演と奨励が集められている。奨励というのは、キリスト教会での礼拝の場で話したのではないというのが基本線だが、時には、牧師でない者が語ったときにもそう呼ぶことがある。著者は牧師という立場ではないようだが、礼拝で語っても「説教」として載せられて居る。「説教」の定義は難しいが、神を礼拝する言葉がそこにあることと、その神からの言葉を人に投げかけるということが含まれていると、ここでは捉えておこう。礼拝の場での言葉である。
 旧約聖書の権威である。特にヨブ記の研究については最高の仕事を提供してくれている。だが、ここにあるのは、学術論文ではない。なにもヨブ記を説明しようというようなものではない。新約・旧約を問わず、ある聖書の箇所から、聖書の言葉を聞く者の心の一番奥に届ける呼びかけが並んでいる。ヘブライ語ではこうなっています、その意味は、などと、中途半端に知りえた者は、つい言いたくなるものだが、そういうところは少しも見られない。むしろ、ただ日本語聖書しか読めない人が話しているようなふうにしか見えないのである。だが、そこには深い研究と知識とが隠れている。氷山の下には巨大な氷があると言われるように、これらの実に優しい口調の聖書のお話の背後に、巨大な知識と愛が隠れている。それは、分かる人には分かるだろうし、分からなくても、引き込まれて行けば分かるようになることだろうと期待できる。
 はっきり言って、私はこの語り方が大好きである。いったいどのようにしてここにこうしたメッセージが集められたかということについては、巻末の「あとがき」に詳しく書かれてあった。一つひとつの文章を集めるのに関わった人の一人ひとりに感謝するかのように、エピソードをたっぷりと載せている。無関係な読者にとっては少しばかり他人事なのであるが、きっとそこに触れられた人への愛情からそう記しているのだろうと想像する。
 旧約聖書からのものの題を並べてみる。「懐疑と信仰」「遠くの神ではないのか」「もう一つの可能性」「ヨナの自画像」「人が孤独になるとき」「わが顔の助けなる神」「大地と共に生きるために」「神との出会い」
 説教に詳しい人ならお気づきだろう。これらは、どれもドキドキするようなタイトルである。あまりお目にかからないような、言葉の組み合わせだと言えないだろうか。どこの説教に、「ヨナ」と「自画像」とが結びつくだろうか。
 新約聖書からは次の通り。「閉じた社会と醒めた心」「繕う者となる」「身をかがめる主、背筋を伸ばして下さる主」「隣り人の徳を高めるために」「希望に生かされて」「聖書時代の旅人たち」
 聖書を説き明かそうという意識よりも、その時の自分の関心や、時に神学的な探究にまつわることが関係しているともいう。だが、これは神学論文にはならない。むしろ、聞く者に呼びかける。
 あなたが、神と出会うということが、どんなに素晴らしいこととなるものであるか、聖書の中の人間ドラマだけを見ても、伝わってきませんか。聖書を少しばかり知っているなどというレベルではありません。あなたは、立ち上がり、歩き始める力を受けるのです。人間には、つまり自分には、どんな狡い心理が、さもしい心が隠れているものか、聖書の人物の中に、物語の中に、知る思いがしませんか。そして昔の人が神を思い、神はこう言われていると大胆に書き記したこの聖書から、神が、イエス・キリストが、人間にはできないことを確かにしていたこと、それがいまここに、あなたのところにも起きようとしていることを、信頼してみませんか。ほら、あなたのその悩みも、辛さも、神がもう分かってくださっているということを、感じるでしょう。自分の犯した過ちに苦しんでいるかもしれませんが、それを断罪するような神ではないのですよ。あなたがいまここからその自由を以て、どう生きるかを、楽しみに見つめていらっしゃるのです。よけいな物音に心を流されず、じっと独りになって、目を閉じてみませんか。神はあなたがそうすることを待っておられます。なぜなら、そのときにこそ、あなたは神と出会うことができるからです。どんな問題を抱えていようと、あなたを神は祝福したくてたまらないのです。聖書はそう知らせたいものです。間違いありません。
 私もまた、このようにして、聖書が人を生かすものだということを、伝えたいと願って止まない。




Takapan
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