本

『古代教会の説教』

ホンとの本

『古代教会の説教』
小高毅編
教文館
\3570
2012.1.

 教文館がシリーズ「世界の説教」で出しているものの一つ。
 値が張るので、全部揃えるつもりは今のところない。その中で私は、古代を選んで購入した。まだ新約聖書さえも明確に編纂されていない、少なくとも現代と同じ条件で権威付けられているわけではない時代に、果たして福音はどのように語られたのであるか、非常に興味がもてたのだ。
 ところが不思議なくらい、現代に通じるものがある。もちろん、今の説教と同じ口調であるわけではない。話題への触れ方や展開も当然違和感を覚えるようなものでしかないのだが、しかし、これを福音をして聞くことができるかできないかと問われれば、文句なしに、聞くことができると答えざるをえないと思う。
 つまりは、現代の礼拝において語られていることと当然重なるものであると私は思うのであって、現代の福音宣教、慰めのメッセージに役立つようなものとして、過去の説教を聞くことがどこかで必要ではないか、とも思ったのである。
 いわゆる「教父」と呼ばれる人々の説教がここに集められている。もちろん、網羅することはできない。そのごく一部を、編集者の考えで紹介しているということになる。中には、これまで邦訳されていなかったものもあるそうで、広く日本人の目に触れることになることは喜ばしいことであるとも言える。
 前書きのように、「教父時代の説教」と題した論文調の部分があるが、コンパクトで要点を捉えて紹介している。それによると、説教というものは、語る側にも聞く側にも、「楽しみ」であったのだという。その他、概説的に記されているが、実際に説教に触れることなくこれを読んでも、もうひとつ感覚的に分からないものであろう。できればここは、説教を実際に読んでその後にもう一度見返すと、なるほどと感じ入ることが多いのではないかと思う。あるいは、日本語に丁寧に訳された説教集ではあるが、その日本語だけの書かれ方では、面白さのようなものが十分に伝わってこないという可能性もあるだろう。しかし、この楽しみが面白いものであるかはどうかはまた別である。なにせまだ信仰することそのものが命がけであったような時代である。確かに寛容令があったとか、ローマ帝国の国教になったとかいう背景も時代的に起こってきている場合があるものの、だからといって信教の自由というものが現代風に与えられていると理解してよいかは疑問である。
 しかしまた、まさに、命を懸けて信仰し、永遠の命を得ていた人々の息吹が、この説教から感じられる、それでよいのではないかとも思う。それは現代の説教スタイルとはやはり違うところがあるだろう。だが、概ね私は、今こうしたことが講壇で語られたとしても、私たちは受け容れるのではないか、という気もするのだ。それは、これらの説教が、神の言葉から発せられており、その同じ神の言葉を私たちは受け容れているからである。その意味では、こうした説教の記録が遺っているということは、ものすごくラッキーな歴史財産であると言うこともできるだろう。過去において語られた説教は、録音もされていないのだから今に生きるはずがないではないか、と言う人もいるかもしれないが、神のことばはいのちのことばでもある。死んだ私たちの魂を生き返らせることくらい、造作もないはずである。信仰者の胸の中では、同じ言葉が生きている。かつて語られた言葉が、いきいきと今に伝わってくるとしか言いようがない。
 おそらく、細かく見れば、当時の新約聖書の写本についての何らかの情報であるとか、聖書解釈において今とずいぶん違う点があるとか、研究の課題になり得ることが、多々あることだろう。しかし、結局それが神の言葉だというのも、人の記録や人が定めた翻訳に終わることがない、何か超越したメッセージであるという点を考慮に入れれば、瑣末な違いは問題になっていない、と言えるかもしれない。
 そして、現代の説教に慣れてしまった私たちは、改めて古代の説教を間近に見ることによって、現代の説教に欠けているものや失った信仰などを、拾い出すことができるかもしれない。いや、そうでありたい。




Takapan
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