『心にナイフをしのばせて』
奥野修司
文藝春秋
\1649
2006.8
社会制度に万全はない。不備はあるものだ。そして、その不備を修正しようとすると、また別の不備が生じる。いや、えてしてそれは、誰かの利害に差し障りがでてくるために、修正されない。その誰か、というのは、弱者ではなく、決まって、強者である。
いわゆる酒鬼薔薇事件ですら、すでに若い子の中には、知らないというケースも目立つ。まして、数十年前の同様の事件となると、記憶にある人のほうが少ないかもしれない。このときにも、酒鬼薔薇事件と類似の犯行状況があった。だから、この新しい事件のときにも、その調査員が、過去のその事件のことを調べていたというのである。
フリージャーナリストの手になる本書は、過去のその事件について調べたことのルポである。しかも、驚くべきことに、被害者の家族その人の肉声をほとんどそのまま綴るという形式を成立させている。
これだけの真情の吐露を可能にしたものは、いったい何だろうか。
そして、これほど、切実な心情を、私たちは見たことがあっただろうか。
犯罪の被害者、ならびに遺族というものは、そう誰もがなる経験をもつことはない。少なくとも今のところ。ただ、騙されたとか、企業の誠意ない(詐欺的と言ってよい)対応に憤ったとかいうことは、日常よくあることである。私も、多々ある。ハインリッヒの法則 の如く、一つの事故の背後には、900もの予備的予兆が存在するという如くである。
犯罪は、今日もどこかで行われている。
犯罪被害者のケアという視点が、行政によってなされるようになってから、実に歴史が浅い。加害者のケア、つまり人権保護だとか更正だとかいうことには、戦後から十分に対応されていたのに対して、である。
加害者には人権はあるのだが、被害者とその遺族には、ないのだ。
この事件の場合、加害当時ぎりぎり15歳であったというだけで、以後弁護士にまで上り詰めている事実がある。それでいて、謝罪はおろか、金銭的な支払いすら、拒んでいるのだ。被害者家族には、謝罪の言葉はもちろんのこと、金銭的約束の支払いも、最初の二年ほど、加害者の親が届けただけで事切れている。
殺された者は、この日本社会では、ただ損なだけである。
この不備を、考えて戴きたい、そのような声が、本から聞こえる。
と同時に、私はまた、別の観点ももって読んだ。辛い気持ちで、そしてまた、遺族のような憤りを幾らかでも胸に抱きつつ。
それは、次のような点による。
この事件が、カトリックの高校で起こったということ。弱いその母親が、カトリックの信徒であったこと。父親は、愛する息子の悲惨な遺体を1人で確認し、あらゆる怒りも涙も1人で背負って隠し通して、事件後間もなく洗礼を受けてクリスチャンになっていること。最近加害者との接触があった際、母親が、「神様が許して頂けるなら……私は祈りの人生にはいるつもりです」と手紙を送っていること――加害者である弁護士からは、返答はない――などである。
信仰が、絡んでいるのである。
こんな貴重な資料はない。多くの人に、考えてもらう素材を与えてくださった。被害者の妹さんの、波瀾万丈な人生も、ひとえにこの犯罪ゆえであって、そこからも実に意義深い声を公表してくださった、と、著者ならずとも、感謝し、また尊敬申し上げたい。
これはもう、私たち読者が、精一杯共感して、力となっていくほかはない。
飲酒運転という犯罪による事故のことが、最近ようやく問題視されるようになった。運転中のケータイやメールのことは、まだ犯罪とは見なされていない。訳の分からぬ脇見運転もそうだ。いじめによる自殺や他殺もいろいろ起こっているし、私たちとて我が身にふりかからないという保証はどこにもない。
そもそも、こうした犯罪に対して警戒し準備している人は、起こす可能性が低い。しばしば起こすのは、保険にも入らず、逃げ得しか考えていないようなレベルの人々である。被害者は、いつもただ損だけである。まるで、戦国時代であるかのように。
更正したといえるのは、遺族に謝罪し誠意を全うしたときではないか、という著者の声を、私はせめて拡声するくらいしか、今はできない。
この本の売り上げが、遺族のためにもいくらかでも用いられますように。