本

『啓示・教会・神学 福音と律法』

ホンとの本

『啓示・教会・神学 福音と律法』
バルト
井上良雄訳
新教出版社
\800+
1997.1.

 復刊したもので、元は1960年の発行である。復刊ですらかなり以前の印象がある。バルトの著作の中でも読みやすいものの一つだとされている。標題の2つの論文が載っているのだが、とくに前半のものはよく整理されていて、確かに分かりやすい。後半のものは、逆説的な命題を主軸に展開するため、うまくそこに歯車を合わせられないと、何を言っているのか分からないように聞こえるかもしれない。そういう難しさはあるだろう。
 しかしこの薄い本の中に、教会がどのように立つべきなのか、考えさせるものは十分に具わっている。もちろん、それは時代的な制限もあることだろう。1934年という、暗いドイツに、一見明るい光が射したかのような錯覚を与えていた時代である。ヒトラーがドイツ国の首相となったのが1933年なのであった。
 もし今バルトが世界を見たら、どう考え、何を指摘するだろうか。自由主義神学や神の死すら憚られることなく飛び交う中で、神の言葉がここにあると告げ知らせ続けた説教者でもあるバルトであったが、さらに神学が揺らぎ、また神学が神学として成立しづらい環境になってきた観のある現代に、なおこれだけの議論をねっとりと説いただろうか。教会が社会へ向けても宣言しなければならない福音を、いままた新たな声を以て告げることができるだろうか。それはもはやバルトの責任ではなく、私たちの責任である。期待される神学がどのようなものであるのか、私たちはまだ確定していないと言えないだろうか。
 私たちは、神学を必要としているのだろうか。教会が、イエス・キリストの言葉を告げているのだと正しく言えるだろうか。人間にはそれが必要であると公言できるのだろうか。
 後半の論文では、通常私たちが言う、律法がまずあって、その次に福音が現れる、そういった見方の順序を完全に変えるべきだという提言が読者に襲いかかる。イエス・キリストを人間が信じるということにばかり囚われてはいけない。キリストが私たちを信頼しているのだ。人間側の見方だけで万全とすべきではない。まず神が私たちを愛したのではなかったか。人間が如何に従えない者であるようでも、神の側からすれば福音は、つねにすでに勝利の中にあるのではないのか。
 どうしてキリスト教が、このような力強い宣言をできなくなったのだろう。暗雲たちこめる時代の中で信仰の良心を貫こうとする意志が、大部の著作からこのような小さな作品までを生んだというのなら、私たちはその暗雲にすら気づかないほどに、福音を忘れてへらへらしているのではないのか。
 バルトの言葉に触れる度に、いま私たちはここで何をしているのか、と恥ずかしくなるような気さえしてくるのである。




Takapan
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