『騎士団長殺し』
村上春樹
新潮社
\1800+
2017.2.
第1部 顕れるイデア編と、第2部遷ろうメタファー編と、2冊とも価格・発行日は同じである。発行されて7年も経って読むとは、間の抜けた話であるが、佐藤優氏の『神学でこんなにわかる「村上春樹」』を開いたら、本書のことが殆どだったので、本書を読まねばならない、と焦って読んだのである。息子のためにかつて買っていたものを借りて、ようやく読んだということになる。
小説であるから、筋書きをここで示すわけにはゆかない。
いつものように、男性の独り語りが基本である。妻から突然別れる意志を突きつけられ、反対できなくなる。というより、村上春樹の男性はしばしば、熱く燃えて闘うようなことをしない。静観し、それならそうするよとおとなしく身を引くだけである。理由の説明もないままに、男は6年間の結婚生活から抜け出す。まずは東北のほうを車で旅する。そこで不思議な出会いがある。出会いといっても、一瞬の出来事のようなものだ。だが、こうした一つひとつの出来事が、村上作品では、巧妙に仕掛けられたものなのであり、後々その伏線は回収されてゆく。そのつもりで、読者は気にしてゆくがいい。男が思考をそこに止めてあれこれ考えを巡らせている事柄は、皆、何らかの意味をもっていることなのだ。
親友が助けてくれた。その親は有名な日本画家であったが、いまはもう認知も怪しく、自分の屋敷にはいない。山奥だが、その家に住んでよいということになり、私はそこで暮らし始める。私は実は画家なのだ。その日本画家の家は、都合がよかった。画家とはいっても、肖像画、あるいは似顔絵のようなもので食っており、この山に来て絵画教室で教える仕事もやっていくのだが、そこで出会う一人ひとりが、複雑に折り重なって、交わってゆく。
特に、免色という男が、素性が分からない。やたら金持ちであるが、仕事にあくせくしているわけではない。ひどく上品で、肖像画を私に求める。これだけでも、まだまだ序章のようなものだ。あとはそれぞれがお読みになるべきだろうと思う。
ただ、タイトルの「騎士団長殺し」ということについては、簡単にご紹介してもよいかと思う。それは、その日本画家の屋根裏にあった絵のことである。リヒャルト・シュトラウスのオペラ『薔薇の騎士』の一場面である。それは作品として全く知られていないものであったし、画風も異なった。だがその画家の作品であることは間違いない。ドイツに留学していたときに、ナチスから日本へと送還されたが、辛い思い出があったことに関係しているらしい。その絵で刺されるのが騎士団長なのであるが、この騎士団長が、私の前に現れる。それは事実騎士団長ではなしに、イデアでありメタファーであるということになっている。
まだまだ説明の必要な事件や、登場人物がたくさんある。だが、面白いことに、というかそこが村上春樹だとも言えるが、それらのもつれた糸が絡まり、ドキドキアドベンチャーがあり、その後少しずつ糸がほぐれてゆき、最後は急速に数年を経て、糸がすっかりほどけてゆく。尤も、謎は残っているのであるが、その謎も、神秘的な夢の出来事によって、読者にはもしかすると、あるいはきっと、というよに想像させる楽しみが解決されたようなものである。
イデア、あるいはメタファーというのは、哲学的な概念だと言ってよい。哲学の知識を振りかざすことはもちろんしない。だが、読者の側でそれについて知ることを自由に含ませて、愉しむことは可能だ。こう解釈せよ、という答えがあるわけではない。村上自身が、もちろん一定の理解や意図で以て、その語を使っているのは当然だが、それを一意に決めるようなことを述べることはないのだ。
2巻で千頁を超える長編であるが、私はさほど長さを覚えなかった。それは、面白かったからだ。一つひとつの出来事や言葉が、実に生き生きと私に伝わってきた。私の中でこれほどに、すべての場面が生き生きと描かれる村上作品は、珍しい。たいてい長くなると、どこかのシーンがうっすらぼやけてしまうのだ。しかし本作品は、くっきり残っている。それは、主人公の男が、実際に相手がそこにいなくても鮮明に記憶する才能があり、一度見て心に刻んだものはいつでもその通りに再現できる特殊な力をもっている、という背景に関するものであるかもしれない。もちろん、この能力も、物語の重要な伏線である。そして、様々な事件が描かれるのに、確かにこれだけの分量が必要であっただろう、ということについても、読み終えた今ならば、肯くことができる理解となるだろう。
一日80頁くらいずつ読んだ。それは、通勤電車の片道で読めるくらいであった。私に取っては、一日あたりのこの分量も、本書を読むためには適切であったのではないか、と、これも今ならば、肯くことができるような気がする。
さて、佐藤優氏の本を、次は読んでみよう。楽しみである。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド