本

『キリガイ』

ホンとの本

『キリガイ』
有馬平吉
新教出版社
\1470
2012.9.

 斬新なタイトルだが、著者たちにとり、これはごく日常的な言葉に過ぎない。「キリスト教概論」の略なのだそうだ。それでサブタイトルは、「ICU高校生のキリスト教概論名(迷)言集」となっている。ICUというのは、国際基督教大学のことで、その高校における授業レポートを紹介したもの、というのがこの本の紹介に相応しい文句である。
 キリスト教関係の学校である。キリスト教の教義や歴史、聖書などをきっちり教える授業なのか、という印象が当然もたれうるだろうが、ここはそうではない。教科書はなく、話し合う時間で授業が過ぎ、点数をつける試験はなく、ただ授業の感想を書いて、教師がそれに対して個別にコメントを返す、というだけの教室なのである。
 そういう、どこか実験的な営みができる学校のタイプでもあるし、海外で暮らした生徒が半数以上を占めるという事情もあり、通常の国内の高校とは趣を異にする様子であるのかもしれないが、それにも増して、ここには教育の本当の願いと、キリスト教を使って自ら考えるということで神との出会いを待つというような、宗教教育の本来の姿がある、と著者は捉えている。そして、私もまたそう思う。
 とにかく、本を最初から開いて読んでいくだけでいいだろう。理屈はいらない。まずは「自分がモノ扱いされたらどう?」というテーマについての、高校生たちの感想文が並んでいる。「自分がモノとして扱われているのに、それを普通だと思って気づかない人は本当に悲惨だと思う」と、最初の生徒が書いている。その背景になる部分もちゃんと掲載されており、もちろんプライバシーに関することが公表されているわけではないが、考えた背景は十分読みとれるように構成されている。そう、こうしたすばらしい考え方を示してくれた意見の数々を、教師たる著者は、文集のようにして生徒と分かち合ってきたのである。それを、このように一冊の本としてまとめた、というのが実情なのである。
 問題は、「ワイセツってなに?」「他人の目が気になる?」と身近な話題、高校生なら誰もが一度は考えたことがある、あるいはその悩みの中にあるといった問題が並ぶ。そして本の構成からすると、やはりだんだんと、聖書的な問題意識の中で考えてもらうことになる。「人は死んだらどうなるの?」「自分の中にも罪がある?」といった問題である。そして「愛は体験しないとわからない?」と、すべての人が感心をもつはずの問題へとつながれていく。
 高校生の考える程度のこと、などと言うことはできない。そこにないのは、世のつきあいやしがらみで、取りつくろったオトナの生き方のようなもの、もっと言ってしまえば金がすべてとなってしまった堕落した世界観くらいのもので、人間として自分を見つめ、人を見つめ、世界を見つめるときに、考えないではいられないこと、誰もが思い悩むことのあることに対して、照れたり逃げたりすることなく、真正面に向き合い、懸命に言葉を探している人格がここに居並んでいるとしか言いようがない。できれば忘れようとしているような、大人が避けている問題がここにある。また、それに対する様々な考えがここにある。一人の大人が、分かったような顔で解く哲学より、よほど人間の多様な真実を、ここに提供してくれていると感じざるをえない。
 高校生が読むと、のめりこみそうになる内容だと思う。しかし大人もひとたびこれらの声に耳を傾ければ、ここから逃げることが卑怯に思えて仕方がなくなることだろう。こうした問題意識に、金抜きで向かい合うだけの勇気が、大人に、果たしてあるだろうか、と私は問うてみたい。
 生徒たちは、何も皆がクリスチャンであるわけではない。たしかに信じている生徒もいるが、信じていない生徒、信じたくない生徒、そしてこのレポートの中でも、無神論を主張したり神が分からない明言したりする生徒はいくらもいる。聖書を信じているから答えやすいなどということも、決してないのだ。教師もまた、その生徒の信仰の有無によって差別感覚をもって接するつもりなどない。もちろん、心の奥底では、神との出会いを願う祈りがきっとあるのだが。
 金銭という価値観で色塗ることでしか世界を見られなくなってしまっていることに、大人たちは自分で気づかないかもしれない。どうぞ、このピュアな、勇気ある向き合いの座に、参加して戴きたい。そのことが、これまた商業的にすら用いられている安易な「自分探し」を喜んでいるような大人たちに、より真実に近い自分というものを見出させてくれるものと私は確信している。
 最後のところには、教育論が述べられている。教育に携わる大人の方々がこれを読んで、刺激を受けないはずがないと思う。挑戦を受けていると感じるのではないかと思われる。なにも、ここにある姿が理想であり、教育のすべてなのだなどと言うつもりはない。様々な姿がある。どれが一番よい、などといえるものでもないだろう。だが、人が人として向かい合うとき、この教育論の言葉の中に、何か心に響くものが全くなかったとしたら、それはもう教育者であると自称する資格はないのではないか、と私は感じる。「生徒は愛情をもって打てば必ず響く」という、最後のほうで確信に満ちて語られた言葉は、ありがちな、自己陶酔的な教育屋の自負とは明らかに違う。私も、生徒に教えるということをいくらかやっている以上、それは直感的にも分かる。
 そういうわけで、この本は、自分を探すこと、人生の意味について少しでも関心のある人にとって、必ず少なからぬ影響を与え得る本である、と驚くのである。




Takapan
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