本

『教会を建て上げる』

ホンとの本

『教会を建て上げる』
中島秀一
YOBEL
\1600+
2014.5.

 サブタイトルは、「牧会と説教」。二つの部から成り立っており、それぞれ別個に著したものが組み入れられているため、読者も、二つの本が含まれている、という理解で読むとよいであろう。また同じことが書いてある、と思っても仕方がないのだ。
 そして、内容は、サブタイトル通り、牧会ならびに説教ということであるが、基本的に、説教をする側の理論である。どうやって説教を組み立てるのか、また牧会するときの注意は何か。その意味で、神学生が読むに相応しい出あろうし、場合によっては、説教することのある執事などの役員にも適切な内容であると言える。とくに、役員として教会運営に携わる場合、牧師にべったり寄り添うのがベストではないだろうし、逆に常に牧師に反発するというのも有効ではない。牧師も含めて、ともに教会を運営していく一員であるとすれば、自分の信仰はもちろんのこと、他の信徒の信仰、そして教会全体の歩く先や目的などについて、視野を広げ、理解し、提案していかなければならないであろう。すると、牧師の牧会と説教についても、自分の好みで判断するのではなくて、教会運営の筋道の中で適切に捉える必要があるといえる。
 教会を建てる。もちろん、建築も含むが、建物の建造に限るものではない。ハードよりもソフトが重要だ。だが、何がどう重要なのか。実際どうしていくのか。具体的な導きが、経験者の口から聞かれる必要がきっとあることだろう。
 信仰の継承、教会の将来ということが言われて久しいが、停滞しているキリスト教世界をこの日本で見るとき、この本のような視点と企画が、俄然必要の度合いを増してきたことは否めない。ここには扱われていないが、ほかに「子ども」も重要である。若者や子どもを教会にどう結びつけていくか、育てていくか、そうした内容はこの本では扱えないが、併せて考えていきたい一連の問題であると言えよう。
 ところでこの本の表紙のイラストは、料理した鍋を運ぶエプロン姿である。これには意味がある。本の帯に記されているのだが、「料理人は説教者、食材は聖書、客人は聴衆、料理長は神である」という、喩えのようなフレーズが見える。実際、これは譬えなのであって、説教を、料理の一連の作業や主体になぞらえ、料理のコツを挙げると共に、説教のコツを教えていくという教育的効果をもっているものである。ここが、ある意味でユニークであり、ウリであるのだが、帯のアピールもその点奥ゆかしく、何がどうであるのかなかなかアピールしようとしない。だがこの分かりやすい喩えは、もっと強調し、アピールしてよいのではないだろうか。北大路魯山人の言動を例に挙げ、その料理への極意を、説教のあり方と比較し、浮き彫りにしていこうとする試みは、なかなか他では見られないものである。この面白さを、もっと強調していよかったのではないか、と思うのだ。
 ただ、齢七十を超えたベテランの著者である。教会を建て上げる一つの目的は、教えてきた従来の聖書神学校での教育で繰り返してきた、神学的背景による説明に終始しており、福音的な一定の神学書を根拠に綴っていく。何も学問的なものを要求すべきだというつもりはないが、広がりがなく些か寂しい印象を与える。そして、説教についてもまた、ユニークな喩えであることは認めつつも、極めて教科書的で、抽象的な構成で進められていく。説教の経験のある人であれば、書いてあることは肯けるが、これから説教をしなければならないという立場の人にとっては、具体的なものがないと理解も実感も難しい。
 牧会について、説教について、実に福音的正統的な理論が蓄積されていることは確かだが、さてこれからの時代、若い世代がこのままの姿でとけ込めやすいかどうかは疑問である。各地の教会で模索的ではあるものの、若い世代がキリスト教に近づけるような条件を問いかけている。これをしない教会は、ひたすら平均年齢を上げるばかりとなり、日本社会以上に、超高齢化教会となっていく虞が強い。教科書として優れたものであることについて疑問を挟む余地はないのだが、ここにある牧会論や説教論では、若い世代への伝道力に乏しい。教会の実際置かれた立場の中でこれからどうしようかというところに、声が向けられていないように見える。これから牧師になろうとする人にとり、模範的な一定の講義となるであろう。教科書のように、何か戻って確認したり調べたりしようというときに、役立つ存在ではあるだろう。このオーソドックスな牧会への理解を踏まえた上で、私たちは次のステップで教会形成を、時流に合う形で実践していかなければならない。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります