本

『私の嫌いな10の人びと』

ホンとの本

『私の嫌いな10の人びと』
中島義道
新潮社
\1260
2006.1

 反社会的あるいは被社会的を自らのモットーとする哲学者。その生真面目でありつつ世間的でない生き方を綴った本は、どこかそういう本音を貫いてみたいという思いのカケラの備わっている人々に受けて、売れ行きも悪くない。そんなあぶく銭で幾らか潤っているがゆえに、今ある大学職の中でも勤勉に働くようなことはしない。
 アウトローという言葉を思い起こす。一匹狼という言葉もあった。どこか、男の浪漫みたいなものを感じさせる生き方が、現にあるのだという若干の憧憬と、他方、こんな要領の悪い生き方が許されて羨ましいよな、というやっかみも混じりつつ、読者は面白がって読んでいるのかもしれない。
 この本では、「笑顔の絶えない人」「常に感謝の気持ちを忘れない人」「みんなの喜ぶ顔が見たい人」など、10のタイプを挙げて、それらがとことん嫌いだと叫んでいる。
 福岡県生まれのこの哲学者は、カント研究で業績を上げている。カントと言えば道徳哲学だと言われ、判で押したように同じ時刻に散歩するので町の人はカントを見て時計を合わせたというエピソードまで残っている。さぞかしカントも真面目な人間だったろう。それが、凡人のイメージである。中島氏はそうは言わない。たしかにカントは社交的で人気があったが、結婚家庭を築かなかったことも含め、多分に原則主義者として手に負えない「ならず者」であったのだ。
 その点、中島氏は、カント的だと思う。つねに、何が合理的であるかを考え、理に敵ったことを選択すべきだという格率をもっている。それは、特定のセクトに付くなどということはせず、その都度何が正しいかを思索して決める。
 とすれば、中島氏の嫌いな人びととは、カント的でないという面があるのではないか。意志の格率を第一とせず、さも道徳を第一においているかのように見えそうな態度をとりながら、実は他の目的とすりかえているという欺瞞が、カントの言う最大の「悪」であった。ごまかそうとして、いやおそらくは、自分がごまかしているという自覚すらないままに、実際は利益を求めての心理であるにも拘わらず、道徳第一でこうしているのだよ、という顔をすることこそ、すり替えによる悪の根深い部分なのであった。
 中島氏が嫌っている人びとは、ほぼこの範疇に該当するように思われる。
 ところが、クリスチャンに関しては、信仰なんぞ、というふうな悪口は、決して書かれていない。p46から、「姉のキリスト教会」のことが書かれ、「こういう過酷な環境で育った」と自らのことを語っているのは見えるが、信仰を否定するような書き方が、他の事柄と同様過激に書いてあってもよさそうなものを、全くそれがない。
 哲学者気取りの人間の中には、信仰なぞ意味なし、と完全否定し、それでいてなんとか否定してやろうと躍起になる傾向のある人が少なくない。だが、中島氏はそういうタイプではないらしく、そこは流石だと思った。それが否定などできない性質のものであることを、カントを読んでいれば当然そう思うのかもしれないが、ちゃんと弁えていらっしゃる。信仰内容の吟味には、入らないのである。
 こういうフェアな姿勢をこそ、まさに「合理的」と呼ぶべきだろう。あまりにも純朴すぎて、私たちが忘れてしまった何かを、彼の著作の中に見つけたくて、私たちは読もうとするのかもしれない。




Takapan
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