本

『記憶する体』

ホンとの本

『記憶する体』
伊藤亜紗
春秋社
\1800+
2019.9.

 ここのところお気に入りの、伊藤亜紗氏の本のひとつ。ルポのような体裁をとりながら、一本筋の通った、力作となっている。美学という専門分野とどのように関わっていくのか私は知る由もないが、肉体的障害をもつ人々の感覚について非常に多くの研究とレポートを私たちに見せてくれる。それは恐らく、一人ひとり違うのだろう。だが、とにかくその当事者でなければ分からない感覚というものがある。従来は、いわゆる健常者の側が、あなたはきっとこうだろう、と見下ろすような眼差しから、お仕着せの援助を与えるような図式がまかり通っていた社会であった。それを改める方向に、近年社会の意識も転じているとは思うが、それでも、実際どのように感覚されるのか、何が助けとなるのか、本人が決めなければならないのであるが、それは個別の声に留まっていた。
 本書のように、一定の集積を以て事態にあたり、本質を見出す試み、また明確に言語化して、いくらかでも普遍的な言明にしていくということは、やはり大切な営みであるはずだ。
 本書には11のエピソードが収められている。
 私たちは、自分の体を自分の意志が支配している、と信じこまされているように見える。しかし必ずしもそういうものではない。体の動きの大部分は、意志どころか、意識さえせずにこなしているものである。しかし障害を背負うと、そこに意識が伴う。なんとか意識して、動けともがきつつ動かす場合がある。さらに、その手や足が、客観的には存在しないのに、動かす意識が働くというようなこともある。このあたりに注目すると、私たちが自分の体とどのようにつきあっているのか、またどうつきあえばよいのか、にも考察が及ぶかもしれない訳である。
 かつて知っていた自分の体の記憶、それが残るとき、どうなるのか。本書はこのような視点を大切にしつつ、インタビューを繰り返し、一人ひとりの感じ方や努力、その結果どうなっているのかなどを教えてくれる。記憶は自分の無意識な動きを助けてくれもするが、時に邪魔もする。それを一つひとつ辿りながら、考えていきたいのである。
 全盲なのにメモをとる女性。見えないけど色を感じる人。身体的なことも、感覚的なことも、また難病によりしびれから逃れられないという人もいるし、吃音とつきあうという場合もある。
 それらが果たして障害であるのか。欠陥のように見なしてよいのか。障害を扱う作品を見たいけれども、そうするとフラッシュバックしないかと怯える心も存在する、吃音の人も、そのままの自分というものがそこにいることを強く感じることが多いという。確かに、障害が元のようになくなるのであれば、それはそれで望ましいことかもしれないが、その障害もまるごと含めたうえでの自分というものがここにあるならば、それをただ取り去ればよいとか、解決すればよいとかいう単純なことではない、とも言える。これも、当人の感じ方や考え方だ。周りがとやかく言って決めることなどできない。
 自分の体験できないことを体験している人がいて、それを伝えてくれる人がいる。本は、そういう喜びをもたらしてくれるし、いつでも付き合ってくれる。本書は、多くのいわゆる健常者に、新たな扉の先の世界を見せてくれることだろう。




Takapan
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