本

『禁欲のヨーロッパ』

ホンとの本

『禁欲のヨーロッパ』
佐藤彰一
中公新書2253
\880+
2014.2.

 サブタイトルは「修道院の起源」。こちらのほうがいわば正道だろう。だが、「禁欲」という言葉にはインパクトがある。
 まことに、キリスト教の歴史は、禁欲の勧めから始まっている。ある意味で今なお続いているのであり、今も同じ路線を守る流派もある。いや、本質的に、私たちが通常の意味で用いる「禁欲」という言葉は、キリスト教文化のためにあると言えるのかもしれない。
 禁ずるということは、それをしがちだということである。どうしても人間の傾向性はそれへと流れて動こうとする。しかし、それはなんとかして止めなければならない。止めるのには大変な苦労が必要となる。だからなかなかできない。できないけれど止めなければならない。そういう葛藤の中で克服し切れないからこそ、「禁欲」と呼ぶ。
 もし、一時的な流行や文化であれば、それ自体をなくすことは可能かもしれない。ギリシア自体の男性が、少年愛を普通に行い、どうしても少年愛を止めたいが止められない、と苦しんでいた人がいたとしよう。しかし今の時代に同じ問題で悩む人は稀であろう。しかし、この問題を「性欲」という単語に置き換えると、これは現代でも同様に苦しむことはあって然るべきだと言える。
 本書は、時代を制限している。時と場所を限界づけることなしに、こうした問題を取り上げて議論することはできまい。七世紀前のヨーロッパに限定した取り扱い方をすることになっている。つまり、「修道院」なるものが栄えていくのはこれ以後であるのだが、どうしてその修道院が生じたのか、その背後にどのような人々の生き方や考え方があったのか、細かくレポートしよう、というわけである。
 その意味では、確かにユニークな観点であると言える。そもそもヨーロッパ世界では、ギリシアに起源をもつとして、性欲がどのように見なされていたのか、性欲とは何だったのか、そこへ侵入したキリスト教という文化が、その欲望をどのように判断し、変えていくことになったのか、そこを具体的に挙げていこうというのである。その生々しい表現は、ちょっとドキドキしてしまうほどであるが、人間というもの、いつもどこでも同じだなあと思わせるものもあれば、そんな趣味がありうるだろうか、と我が耳を疑うような記述もあった。そもそも生殖のメカニズム自体、かつての時代には分かっていない、というのはありうると思う。しかしそれなりに合理的に考え、避妊手段もあったということは、やはり当然のことだと言えるだろう。そうでないと、文化的都市生活はできまい。庶民の隅々にまでどう行き渡るかは分からないが、施政階級や貴族などについては、それは重要な問題である。今とはだいぶ概念が違うが「医師」もいたわけだから、人体に対する対処の仕様というものがあったことだろう。歴史を紐解くと、いろいろなことが分かってくる。
 やはり鍵は女性がどういう立場にあったか、ということなのだろうが、夫が他の女と関係したときは比較的寛大でありながらも、妻の場合は厳罰となるのは、ありがちなことである。イスラエル文化の中では、いくらか緩和されるが、やはりその傾向はあった。これがローマ文化となると、やはり女性としては、夫の浮気については耐えるしかなかったのだということは、想像に難くない。パウロがギリシア世界、ローマ文化の異邦人世界に福音を伝えたとき、女性が多く福音に招かれている。これはある意味で現代でもそういう面があるだろうが、使徒の記録を見てもそういう動きは確かに強い。それは、夫の自由さを前にして孤独に耐えなければならない妻の立場が説明する、というふうに本書に描かれている。こうした女性が、真実を表す思想としてのキリスト教、そしてその弱い立場の女性たちを抱え包むような聖書の言葉に惹かれていく、というのは確かにその通りなのだろう。新約聖書の記録や書簡に描かれた情況は、このようにして理解されて然るべきなのだ。
 それから後の世代、禁欲生活が奨励されていくようになたときの、集団生活の場としての修道院の起源の場であるが、これについての紹介がまた生々しい。いかにそれが苦しいものであったか、さらに言えば実現の不可能に近いようなことであったのか、涙ぐましい努力が紹介されることにより、明らかになっていく。事は私たちが気軽に口にするように簡単なことではなかったのだ。修道院内部で同性の間であっても、肌を見せたり見つめたりということを禁じていくものであったのだ。
 また、旧約聖書に、祭司の妻に処女性を求めるものがあるが、これがローマに公認され国教となっていったキリスト教でも一定の制度として利用されることになっている。女性は女性として、快感を悪とする空気の中で、この文化に浸っていくことになる。歴史の動きの背後に、こうした人間心理や欲望とその節制という問題が深く関わっているということは、火を見るより明らかであるはずなのに、歴史書の表舞台ではそういうことにはめったに触れられない。もちろん本書の扱う以降の中世社会でも、こうした問題は様々に社会制度や教会組織に影響を与えていくことになるはずである。ただ、新書としての本書ではそこにいい加減な方で足を踏み入れることはしない。それでよいと思う。私たちの関心が、自分の中の欲望と無縁でないところで歴史が動いていたのだ、ということに向かうのは、悪いことではない。何もスーパースターや神話的英雄が、歴史を重ねてきたのではない。すべて等身大の人間のなせる業なのだ。時に神話として過去を見せる向きには用心が必要である。そうやって、現代の為政者を神の如くに見立てて、庶民を道具として利用しようという腹がそこにあるのだ。私たちは歴史を見つめ、歴史から学ばなければならない。それは、確かに現在と未来を築くためであるからだ。




Takapan
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