本

『木の教え』

ホンとの本

『木の教え』
塩野米松
三上修・画
草思社
\1260
2004.8

 職人技という言葉には、尊敬すべき響きが含まれる。ここでも、木材を加工する数々の職人の技が披露される。だが、ここで扱われる「木」という素材に対する眼差しは、それをテクニックとして理解させることを明確に拒む。
 です・ます調で書かれ、活字も比較的大きく、ふりがなが施されている点は、小学生にも読んでもらいたいという熱意の表れであると想像させる。私は、もっと大人こそ読まなければならないと自覚した。子ども向けのように見せながら、実は強烈な、大人へのメッセージでもあると思ったからだ。ただ、もしかすると、このだらしのない大人たちへ失格者の烙印を押しつつ、次世代の子どもたちにしか期待するところはない、という断罪である可能性も覚える。
 経済性、効率性だけで木を扱うことが如何に間違っているか、それをこの本はとことん訴える。宮大工や舟大工の秘伝を聞き書きする中で、ほんとうに木を大切に扱ってきた人々の、愛情ともいうべきものが、ひしひしと行間から伝わってくるのだ。
 では、どのように木を利用すべきなのか。木と触れあい、木と共に生きていくべきなのか。たんに見た目だけで木材のことを推し量ってはならない。形だけを整えていれば木材になるなどと考えてはならない。木は一つ一つが生き物である。それぞれに癖があり、個性がある。その個性をつぶすような画一的な製材は、そこから作る建物や道具を殺してしまう。その個性ある木材のいのち、個性を最大限に発揮させるにはどうすればよいのか、それは、昔ながらの伝統的な職人が身に着けて実行していたことなのだ、と繰り返し短いコラムの中で重ねて言われる。
《癖を生かす、個性を生かす、生かす場所をさがす、これがこの世に生まれてきたものを大事にする考え方です。せっかく寿命があるのに使い捨てる。使いづらいから使わずに捨てる。こういう考えは傲慢で横暴ですし、さきゆきを考えない愚かな発想としかいいようがありません。》(107頁)
 こういう説明を読むとき、これは本当にただ木のことを述べた文章だろうか、と自問自答します。これは、人を教育する者すべてが心得なければならない極意なのではないか。
 丘の上の一本木は買わないがよいともいう。競争のない場所で安穏と枝を伸ばしたいい形の木は、たった一本で風に立ち向かわなければならないため、力が入りひずみとなり、木材としてはねじれや割れが早くくるというのである(83頁より)。お山の大将的に育った人間の弱さのようなものを物語っていないだろうか。それでもなお、そんな木だからダメだというのではなく、その素材の癖を見ぬいて、生かすようにしていくのが職人なのだと告げる。それが「適材適所」なのだ、と。
 たくさん売るとか経済的だとかいう理由で、この適材適所の手間を惜しんだとき、材も生かされないままになっていることがあるのだという。《癖を生かす工夫より、癖のない均一な素材として処理するほうが、ずっと大量に早く生産できたから》、速く大量につくれば安くなってそれでいいという世の中になっていったのだ、と。――これは、どう見ても、教育というものを説明している。画一的な兵隊を送り込んでしまった教育の歴史を反省するなら、私たちは、この木の教えに学ぶ必要がある。
 木についての怨念のようなものが伝わってくるくらい、迫力のある本である。そして私は、そこに人を生かす知恵も、思う存分こめられることになった、木についてのすばらしい教えを確かに見たのである。
 著者は最後に、やはりそのことに言及している。
《親は子供を送り出すときは、いい時期を見つけて旅立たせ、後は自らの力で生きぬくようにしてやります。しかし、一人で旅立たせるためにはそれまでに十分育ててやる必要があるのです。》(201頁)




Takapan
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