本

『近代美学入門』

ホンとの本

『近代美学入門』
井奥陽子
ちくま新書1754
\1100+
2023.10.

 帯に書いてある。「美しい」とはなにか――これを問えば、限りない頁の書物が必要だろう。本書は近代にそれを限る。タイトルにはないが、西洋である。西洋近代思想において、「美」がどういうものとして捉えられるように変わったか。それは、現代の私たちがほぼそのまま踏襲しているだけに、私たちにその変化というものは把握し難くなっている。それを、読者に解説の中に引き入れ体験させながら、繙いてゆく。
 最近は分厚くなり、価格も上昇した「新書」タイプであるが、本書はワンポイントでありながら、とてもうまく仕上がっていると思う。ずばり、面白い。
 「美」は芸術に必然する概念である。西洋で芸術というと、「アート」という語が思い浮かぶ。だが、それがギリシア起源を探ると「技術」に匹敵するものであるわけだが、哲学的な思考を始めると、その辺りのことは常識である。しかし、それが「芸術」に転化したのが、「近代」である、というのが本書のスタンスである。ここにしっかり立って、景色を眺めていくのが読者の務めとなる。
 そのことを、「芸術家」という立場から考えるとどうなるか。正に職人であった古代から中世までの捉え方から、「創造」の世界で活躍する近代へと変遷する。そこには、「創造」が専ら神の業でしかあり得なかった世界観から、人間も「創造」してよいのだ、という見方あるいは社会の変化に基づく、とも言えるのだろう。
 ところで「美学」は近代の産物であるが、そこにカントが大きな影響を与えていることは間違いない。本書でも、カントの『判断力批判』が大きく取り上げられている。しかし、その前に、「美」が客観の内にあるのか、主観によって決まるものなのか、これも近代において大きく変わることを見ておかねばなるまい。そこからこそ、カントにつながってゆくからであ。
 このように概観した後、本書は観点を絞る。後半で、それを「山」として取り上げたのがユニークである。古来「山」は、登山したり描いたりというような対象ではなかった、というのである。山は恐ろしいもの、近づけないもの、「崇拝と忌避の対象」であった、というのである。
 ここに私ははっとした。旧約聖書で、神はしばしば山から語る。あるいは、モーセの十戒のように、山へ導いて、大衆から離れたところで神との契約を交わす。そしてそもそも、イスラエル民族が、山の神を擁している、という思想がはっきり描かれているのである。ふううん、そうか。何気なく見ていた私が愚かであった。ここで指摘されたように、「山」なるものに対する人間の畏れがそもそもあるのであれば、この「山の神」という捉え方や、旧約聖書における山での出来事が、すべて同じ重要な基盤から語りかけてくるようになるではないか。私たちがいま近代以降の眼差しで見ている「山」ではなかったのだ。
 本書では「山岳論争」という形で繰り広げられているものについても、私は無知だった。山というものが、神の罰により作られたという思想である。そこではもちろん聖書に触れられており、必要なことは述べられていると思うが、これは別にまたもっと深めて考えたいことだと思った。中世で下火になるものの、宗教改革のときに再燃したのだ、と記されている。本書の性格上、これだけで終わっているのだが、ここはぜひ知りたいものだ。どうして宗教改革がこれを大きく取り上げたのか、興味が湧く。
 山、そこから「崇高」という概念に入るのも、よい案内であろう。芸術が「圧倒的なもの」へとつながってゆく。現代、私たちは何を以て「崇高」だと捉えているのだろうか。
 最後に著者は、「ピクチャレスク」という概念を中心に論を展開する。「絵になる」という観点である。風景画というもの自体が、新しいものであることに触れ、そこに「絵になる」という理解の仕方が伴っていることを明らかにしてゆくのである。今やそれが「映え」になっていることは、言うまでもない。
 これで終わる方法もあった。だが、おそらく著者が一番言いたいことが、最後に控えてい。というより、そこへ向けてすべてが流れてきたのだ。それは、「自然」である。人間は、どう「自然」と向き合うべきであるのか、それを問うのである。
 基より、「自然」という対し方そのものが、近代の所産であることは間違いない。私たちはどうしても、近代のものの見方の中でやってゆくしかないのだ。人間と自然というものが一様に塗られてゆくようには、もうできないのである。対立してしまった。向き合ってしまった。その私たちの目の前に現れる「自然」というものとの関係を新たに結ぶ契約が必要なのである。それが、芸術の役割であり、「美」の概念の捉え直しであるのではないか、というような心を、私は言外に感じているのだが、果たしてどうだろうか。少なくとも、一読者が、そのような気概を受けた、ということについては、否みようがない、としておきたい。
 本書は新書でありながら、実に丁寧な読書案内と索引を備えている。ここに、著者の誠実さを覚える。気持ちよく、私は本を閉じた。だが、きっと実は、ここからが本当の始まりなのだろうというふうにも思えた。なにせ、この本は「入門」なのである。門に入っただけなのである。




Takapan
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