本

『君は君の主役になれ』

ホンとの本

『君は君の主役になれ』
鳥羽和久
ちくまプリマー新書412
\880+
2022.10.

 寡聞にして知らなかった。福岡に、「株式会社寺子屋ネット福岡」というものがあるのだ。いや、ニュースのどこかで聞いたような気がするが、追跡したことはなかった。著者は、その代表取締役であり、単位制高校「航空高校唐人町」の校長をも兼任する立場にあるのだという。
 このちくまプリマー新書は、ヤングアダルトを対象にしているという触れ込みではあるが、その言葉は対象領域を限定しにくい。本書は、中高生あたりを照準に置いているように見える。
 なかなか過激なかけ声は、一部の中高生には頼もしく響くかもしれない。恵まれた教育環境にある子どもたちは、そんなふうに言わなくても、と引くかもしれない。事実、歯に衣着せぬ喋り方は、本気にすると大変だと思われるほどに、強く激しく響いてくる。中高生に対して、それでいいのか、こう叫べ、などというようにたたみかける言葉は、もしそれに没頭してしまうと、宗教的にのめり込んでしまうかもしれないようなものを感じる。
 そのような本は、大切な視点を提供してくれることがある。私も確かにそうだと思わされることが多々あった。坊主頭にしろというサッカー部の空気に逆らったとたんにいじめられる部員の話に、理不尽さを覚えたのは、私だけではないかもしれない。クラスの話し合いがひとつの善意の方向に走る中で、提言を施したところ、今度はその提言に従った意見に全体が同調していったというのは、怖いながらも、正にこの社会はそうなっているという姿の縮図だと私は思った。制服を選択制にすることで、自分が善人であるかのように思いなす多数の生徒の中で、それは差別を意識させること、つまり自分は差別などしていないという顔をしていながら、むしろ差別を呼ぶような言い方をしているのではないか、という提言をした一匹狼の話は、私の姿を見るような思いもしたが、彼のように目の前の者すべてを敵に回して私は闘っているわけではないために、その生徒の勇敢さに感動すら覚えた。
 このように、私の琴線に触れるところが多々あるにも拘わらず、このような著者のかけ声は、どうにも苦手なのである。
 専門的には、労働や資本のような問題の領域であるように見える。マルクスの考えにも時に熱くなって語るようなところもある。それに絡んでなのかもしれないが、哲学者の言葉も絡ませてくるし、それはその頁毎に簡単な注釈を入れ、読者を置いて行かないように配慮している。でも、私から見ると、そうした注釈や引用も少しばかり偏っている。政治思想に傾いた形で、何事も判断しているように見えるのだ。
 親とは実は子どもをこのように見ているのだぞ、という説き明かしも面白かったが、二元論はダメだという著者の宣言の割には、その場面では親が子を操る心理について、二元論的に処理しているように見えたのは、私だけだろうか。子どもは神から与えられた存在であり、いうなれば神の国の市民を、養育するべく預けられたもの、という感覚が私にはある。だが、そのような視点は、本書の議論には微塵も現れなかった。確かにそのような観点は、著者は気づかないだろう。思いも寄らないだろう。だから、若者よ、親はこういう魂胆でおまえを育てているのだぞ、と吠えていることは、一部の親の心を踏みにじるものとなってしまうことになりかねない。
 この人のしていることに文句をつける資格など、私にはない。これだけの労力を費やして、決まった枠に入れられることに落ち着けない子どもたちを生かすような働きを続けていることについては、心から敬服する。そして、教育や社会に対して訴えていることについても、多くの点で共感を覚える。そのように子どもたちを育んで戴けたらうれしく思う。
 だが、本書でも「金」の問題にかなりのスペースをとっていたように、やはり政治や経済といった分野での思想を原理としてのみ、教育界や家庭に対して論争を挑んでいるような点は、それだけの原理でそこまで強気に正義を貫くことが適切であるのかどうか、私は疑問をもつ。だってお金がほしいでしょ、のようなところを原理として、親の愛は自分を守りたいだけだ、というような形で、それで子どもたちを守っているというようなあり方が、すべてであるようには、私は思わない。言いたくても言えないことを抱える子どもたちの心理は、優しさ故の辛さもあるし、それを信仰という形で、なんとか打ち明けて心の平安を保っているという営みも、世の中にはあるのだ。
 経済理論はたっぷりとうかがった。社会制度への不満のような感情も滲み出ていた。そちらへの関心の強さはよく伝わってきた。だが、著者自身の人生や生活、経験した心の傷や改心のようなもの、個人の道徳や宗教的な眼差しを含んだような人間性は、本書ではずっと感じることができなかった。と思ったら、最後のほうで、自分の過去の経緯が少し書かれていた。ああ、この人もいろいろ迷い、傷ついて十代を過ごしてきたのだ、ということが見えてきた。そう、何か大人が定めたようなコースをおとなしく進んで行くということが、この人はできなかったのだ。それで反抗し、抵抗して自分の道は何かを探してきたのだろう。しかし、それがすんなりうまく行くわけでもない。やはり世間で言われているコースのほうが楽だったのだろうか、などという気持ちも混じりながら、いやそれでも自分で選んで行くのだ、と自分に言い聞かせるかのようにして、そして今日までやってきた、というようなものではないかと推測する。
 そのとき、この人にとり必要だったことは、強い自己肯定感だったのだろう。自分の信念は間違っていない、その思いが自分を支えてきた。だから、迷いながらでも、自分で決めたことは堂々と肯定して行くとよい、そんなふうに考えているのではないだろうか。
 だから、本書のアドバイスでも、必ずしも首尾一貫していないような印象を与えており、どこか行き当たりばったりのように、こうすればよい、こうすべきだ、のようなどこか世間の声に抵抗するばかりの自己肯定のかけ声が、吠えるようにその都度出て来ていたのだ、というように私は邪推している。原理というものによるのではない。いつでも自分のしてきたことは間違っていなかった、ということを自分に言い聞かせるようにして、それをいま若者に訴えることにより若者を励ましているような図式にしているが、実は自己肯定でよいのだよな、と自分を励ましているのではないか、というふうに読めてくるのである。
 俺は、俺の人生の主役として生きているんだよな、そうだよな、誰かの言いなりになっているのではないのだよな、などと。




Takapan
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