本

『「君が代」の起源』

ホンとの本

『「君が代」の起源』
藤田友治+歴史・哲学研究所編著
明石書房
\1890
2005.1

 面白かった。などと言うと、政治的な立場からムキになるタイプの人は、不謹慎な、というふうに文句を言ってきそうである。
 確かに、著者たちのグループには、一定の政治的立場のようなものがある。だが、その立場がどうであろうと、集めた証拠と重ねた論理は、読む人を引きこむものであるかぎり、たしかに、面白いと言えるものである。
 ちょうど、梅原猛が現れたときもそうだった。その議論は、純粋に知的に面白いものだった。その後、権力めいたものを握るようになってからは、面白いとは思わなくなったが、口が上手いと言えばそうなのかもしれない。
 さて、この本は、「君が代」の発祥について迫る考察をしている。グループで行っているが、同じ観点や理解からなされるために、同じ論拠がくり返されるなど、読んでいて、またか、と思うこともある。だが逆に言えば、そうやって何度も説明されると、理解し易いのも事実である。
 サブタイトルにあるように、「君が代」の本歌が挽歌であった、というのが、その証明したい命題である。
 紀貫之が祝いの部類に収めてから、これはめでたい歌であるというイドラに支配され続けた歴史であるが、翻って万葉の時代に遡ってこの歌の背景を理解すると、これは挽歌に違いない、というのである。
 たしかに、当時の人々が、当時の言葉の理解、パラダイムでこの歌を見れば、抱くイメージがどうであったか、という点に立っての考察は、必要である。いや、それこそが、歴史的解釈というものであろう。
 小さなさざれ石が、どうして大きな巌となるのか。問いはこの一点に集約される。そして、これまでの解釈者の誰もが、それを「なるほど」と言えるように分かりやすく説明してくれてはいない。そのことから、本歌という方面に調査を始めた。すると、これは「君」がしすでに亡くなっていることを偲び、千代に、と願う気持ちが歌われているのだという。
 私も、文学的心情からすると、この解釈はよく理解できる。ただめでたい、でこんな歌を歌うことはないだろう、と思うのである。
 個人的に驚いたのは、この歌が福岡を舞台にしているということであった。もしかすると常識なのかもしれないが、私は知らなかった。「君が代」に出てくる言葉は、福岡の地名や神社などに縁のあるものばかりなのだ。
 いや、そここそが、面白かったのかもしれない。
 なお、戦死者への厚い敬意や思い入れが、これほどこめられた本も少ないという気がしたことも、申し伝えておく。それは、序文を読んだだけでも分かると思う。




Takapan
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