本

『菊と刀』

ホンとの本

『菊と刀』
ベネディクト
角田安正訳
光文社古典新訳文庫
\895+
2008.10.

 何を今更、と言われそうである。今ごろ読むのか。今まで読んでいなかったのか。そう、読んでいなかった。少なくとも記憶がない。ルース・ベネディクト。昔から名前はよく知っている。本書も、大人が皆読んでいるかのような触れ込みで、たいへんなベストセラーであったことも知っている。1946年、戦後の日本を統治するためのアメリカの要請が、こうした有名な本を生んだのだった。
 タイトルが謎めいている。菊と刀、それぞれはいったい何を象徴しているのだろう。これについては常識的な捉え方があるが、本書の「あとがき」で訳者が自分の案を提示している。それはそれでお楽しみにして戴くことにしよう。
 ベネディクトと本作品についての背景や経緯などは、巻末の「解説」に詳しい。女性としての差別に喘ぐ中で、夫と別れてようやくその学術的才覚を活かす道が与えられたようなルース女史は、第二次大戦末期、情報局から日本についてレポートを作れとのミッションが与えられた。すでにヨーロッパ文化についての研究が評価されていたため、日本をどうすれば降伏へ導くことができるのか、情報局での課題となったのである。またそれは、戦後の日本統治のあり方をも考えるためであった。これだけの余裕と戦後処理まで視野に入れて情報を集めていたアメリカである。当時の日本の中枢部が、これに対して勝てるだなどと、言えたものではなかったはずだった。
 ルース自身も、このレポートが最高のものであるはずがなく、これを受けて後継者がまた日本文化についてもより深く正しい知識をもたらしてくれるものと考えていたらしい。だが、意に反して、この本は戦後出ると多くの人に読まれ、また評価も受けている。いまなお、日本文化研究については金字塔を建てていると言える。
 それでも、ほんとうにそうだろうか、と思わされる内容も、ないわけではない。資料としてはふんだんに入手できたのか、日本の文学や演劇など大衆芸能をも取り上げて、日本の文化をアメリカ人に紹介する。忠臣蔵もそうだが、いろいろな映画や本などへの教養も大したものである。それを、報告書としては、一定の結論を付けて、軍当局の知恵の役割を果たすべく成立させる必要があった。そこでは、具体例は大切なものであるのだが、そこからベネディクトなりに結論をまとめあげるとなると、多少なりとも恣意的になってくる。しかし、全体としては、よく調べたとその努力を称えなければならないと思える出来映えではないかと思う。
 日本人のものの考え方が、これほどまでに指摘されると、なんだか裸にされてじろじろと見られているような感覚になってくる。それは、アメリカ文化の中から見れば違和感たっぷりのものだったのである。もちろん日本人にとっては当たり前だと思われるようなことが、実に不思議だと見なされる。本書では特に大きく「恩」という概念が取り上げられ、中心に置かれていると言ってよいのではないかと私は思う。それほどに、日本人の考え方を支配する「恩」という考えをこれほどにも突きつけてくるというのは、あっぱれであったと言えるだろう。
 子どもは最初王様であったが物心つく頃にはそれを抑制するように働くのだ、といった子どもについての叙述もなかなかよいものがあった。この投げられたボールを、私たちはいまなお受け止めて投げ返すのが当然ではないか、と思わされる。時を超えて、日本人に迫るものがここにあるような気がしてならない。はっきり言語化してあるからだ。情緒的に共感するというのが私たち同胞の反応かもしれないが、別の視点から見た日本像の紹介は、そのような視点があったのか、と私たちの誰もが学ぶ素材となる。これもまた本書の効用であると言えようか。それにしても、「いじめ」の構造に触れていたところがあったが、思わず私も唸らざるをえない分析だった。
 恩義や義理などで日本人を論じてそれで終わりなのか、と反発を覚える人もいることだろう。現に当時日本の知識人たちは多くこのベネディクトの作品には反論もしたらしい。こうした議論を、少しばかり別の角度からまとめてくると、新しい哲学的視座のためのヒントになるかもしれない、と少し期待した。
 訳語に苦労した逸話なども「あとがき」に書かれていたが、アメリカがこれから支配するぞという相手国の文化を知ろうとすることは、確かに必要であるだろう。このために要請されたまとめた本書の内容は、少しばかり手っ取り早く、一定の論にまとめ上げようとしたという可能性はあるとは思うが、どうやらまだしばらくは、これに刺激を受けて自らを知ろうとする日本人も、まだまたいるべきではないだろうか、という気がした。良い鑑であるような気がしてくるのである。




Takapan
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