本

『「聴く」ことの力』

ホンとの本

『「聴く」ことの力』
鷲田清一
阪急コミュニケーションズ
\2000+
1999.7.

 哲学者であり教育面でも貢献の大きい著者。著書も多く、新聞のコラムでもおなじみである。日常の言葉で、その背後に潜むものは何かを見つめ、捉えようと語り続ける印象があるが、精神医学、とくに「臨床」という分野での発言に大きな意味があるように私は捉えている。
 その意味では、本書はずばりその哲学の本質的なところに挑む形をとっているようにも見える。サブタイトルが「臨床哲学試論」。哲学一般のスタイルというか、あり方についてしばらくさまようかのように考察した後で、「臨床」へとつながる哲学思考の階段を昇り始める。それは、自分の中のモノローグというあり方ではなく、誰か相手を必要とする生き方と考え方である。
 結局本書は、この角度からずっと問い続けることになる。それは確かに、臨床という現場における重要な検討であるが、それ以上に、哲学そのものに対する重大な挑戦であるかもしれないという気がする。孤高を保ち、自らの思索に没頭し、自分の思いのままの世界観を貫いていく、という思想の王が哲学者のイメージだったとすれば、ここにあるのは、どうしようもない相手に合わせていくかのような、弱気な思索でしかない。でも、そこから、つまり自分の外から、新しいことが始まり、自分を支えることもあるはずだ。
 長らく逍遙する中で辿り着く道の景色を、結論は、などと簡単に言うことはできないし、できたとしても、それを綴ろうとは思わない。一人ひとりがこの哲学の道を共に歩くことにこそ、意味がある。それが、「聴く」ということにもなるのた。自分がこの本と共に思索の道を歩く必要がある。哲学を学ぶのではなく、哲学することを学ぶという原則はここにも適用可能だ。
 本書の後半、ホスピタリティ、あるいはもてなし、ケアといったところにずばりと斬り込むことになるが、その概念を、言葉そのものから、また歴史からも十分掘り起こし検討するあたりは、哲学者としての宿命であろうか。とくに「敵」とこの概念との重なり合いには唸らされたが、何もそのような知識な遊びのために本書はあるのではないとは思う。
 2カ月に一度、熊本の仮設住宅を訪ね、少しの方ではありますが、話の場を提供させて戴いている。思えば、そこで私たちは「聴く」ことを営んでいたのだ。その方々が先般、私たちのようなボランティアが来てくれることはありがたい、と言ってくださった。決して社交辞令ではない言い方であった。べつに何もしていないに等しい私たちであるが、何かしらそれが助けになっているという声がそこにあった。本書の、特に後半においては、こうした営みが、実に大きな意味のあるものだということを、改めて教えられたように思う。
 思索は空理空論でもなく、観念だけの世界でもない。私たちの生きる現場を、背後から支えているものだ。それは分かってはいるけれど、なかなかほかの人に理解して戴けるような説明の仕方が見つからない。それをこの本は、見事に実現しているのではないかという気がした。決して、キリスト教の本ではないし、著者もそのようなつもりで綴っているはずがない。しかし、読めば読むほど、これはキリスト教の本質的なところをがんがん攻めてきている著述ではないかと感じられてならなかった。著者も意図していないだろうが、さすがにそこまでは分からない。ひとと神との対話や祈り、そして信徒に命じられている愛ということ、与えられる希望についてなど、びしびしと当てはまるような考察の言葉が響いてくる中で、私は心地よく本を閉じた。
 そこで私の結論。本書は、新約聖書の実践的な解説書である。そう読んでも決して嘘になることはない。第一、「聴く」ことなしには、信仰は始まらないではないか。




Takapan
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