『希望のゆくえ』
寺地はるな
新潮社
\1500+
2020.3.
大人になっているけれど、どこか少女の部分を宿していて、そして情熱的にはなれないけれど、ほのかな自分の思いに気づいてキュンとなる。そんな若い女性の心理を描いたらピカ一であるような寺地はるなが、男性の視線を中心として、どこか暗いストーリーを書いたらどうなるか。まるで実験のような作品だと言ったら、お叱りを受けるだろうか。
登場人物が、何かどうしようもないんだけど憎めないといった、他の作品に比べると、本作は、どうにも登場人物が、あまり好きになれないタイプばかりである。癖があって、嫌な奴のように感じられる。
そして希望のゆくえがタイトルになっている。この物語は、「希望」と書いて「のぞむ」と読む男性の失踪事件に端を発している。その兄が行方を探す役割となっているが、途中章が分かれると、別人の視点で物語が展開していく。これは、著者の得意とするところである。矛盾無く語られることが必要だが、ある人物の内面だけで進めていくと、その人物が客観的にどのように見える存在であるかが分からない。そこで一定の長さが終わると、語り手とは呼びづらいが視点の持ち主がコロコロ変わるという描き方をしているのである。
探す兄の名は「誠実」という。「まさみ」と読むのだが、作中でも触れられているように、よくぞ「誠実」であり「希望」であるものだ。詰まるところそれは当然作者の思惑なのであって、人間は果たして「誠実」であれば、「希望」をもつことができるのだろうか、という、哲学的あるいは神学的なテーマが物語を暗に支配しているのだともいえるのではないか。
幾人もの視点で関連人物が互いに描かれていく展開だが、この兄と弟との関係、兄から見た弟への視線と感情、こういったあたりが主軸であることは、「柳瀬誠実と弟の話」が、最初と、その後それぞれの逸話の間に挟まる形で最後まで展開していくことから分かる。「弟は、あなたから見てどんな人でしたか」と尋ね、弟の実態を求めようとする。そして希望は、それがどういう人であったか、観察されるばかりで、希望自身がどう思っているのかについては描かれない。
欠点ばかりの、また嫌な奴だと読者に思わせるような人間ばかりがそこにある中で、それぞれが希望に関わるものをもつ。道徳的にもやるせないくらい乱れてもいるし、その中で忍耐している姿もある。なんで耐えているのかと疑問に思うこともあったが、誰もが空しさを宿している様子は伝わってくる。満ち足りた人生、充実感というものは、どこにもない。だから決して読んでいて楽しくはならないし、スカッとすることもない。著者がこれまで作品の中で大切にしてきたように見えたもの、たとえば頼りなくて力もなくてしっかり立っているところがなくて優柔不断なような生き方であっても、そこに何か信頼してみようという気持ちと、前へ進もうという光の照らしなどというものが、見つからない。もやもやとしたままに、空虚な感覚だけが残るような後味の悪さがここにもたらされる。作者の新境地なのかもしれないが、登場人物のネーミングにはいつも一定のこだわりや意味合いがこめられていたことを思うと、やはりこの不自然な「誠実」と「希望」の関係は、ヒントを与えていると考えざるをえなくなる。
ストーリーからすると、この題の「希望のゆくえ」は、失踪した「希望」の行方を探す物語という意味を示すはずなのだが、実は本の題名は、わざわざ振り仮名を打って「のぞみのゆくえ」と読ませている。だからやはり、人生観の問題へと読者はシフトしていかざるをえないのだ。