本

『なぜケータイ小説は売れるのか』

ホンとの本

『なぜケータイ小説は売れるのか』
本田透
ソフトバンク新書063
\735
2008.2

 この方式のタイトルは、二番煎じのようで、見ていられない。本を売るのも大変だ。
 と思っていたら、そうとばかりも言えなくなった。たしかにこの問いは、この本の決定的な問いであるのだ。この問題を、真正面から問う、本なのであった。
 それは、筆者自身が、作家であるためかもしれない。あるいは、出版に携わり、ケータイ小説に先んじてライトノベルという領域を開拓したためであるかもしれない。
 文学的にはなんの価値もない昨今のケータイ小説が、どうして爆発的に売れているのか。注目したオジサンたちは、週刊誌においてこれを考え、また茶化した。だが、文学というものをいやしくも考えそこに情熱を傾ける者からすれば、侮辱的な現象だと言えるのかもしれない。
 こうした、文学の領域でのつつきあいに過ぎないのであれば、ただそれだけの呟きであったであろう。だがこの本は、もっと重要な視点に貫かれている。それは、この筆者なりの、社会観であり、人生観である。
 それを検討するだけの文学的素養も、批判的能力も、私にはない。ただ、キリスト教に対して、どこか通り一遍の、現代風の知識人にありがちな見方で自分の意見の基盤を作ろうとしているように見える点が、気になった。メディアという道具の歴史を通観することによって、宗教上の大きな出来事をいとも簡単に説明してしまうのには、驚いた。
 筆者にとって、ケータイ小説は、キリスト教が崩壊した後の、現代が生んだ宗教的な民間説話なのだ、と規定されるべきものである。そこに、宗教の概念を用いるのである。
 というのは、筆者自身、生は無意味であり、意味をなんとか与えようともがくところに、物語が発生するというベースを保っており、ニヒリズムのような人生観からすべての判断を用いているからである。文学、ではないとしたら、このケータイ小説こそが、宗教なのだ、というのだ。
 ケータイ小説の何たるかについて、知らなかった私も、いくらか見通しが立つようになった。その点については、ありがたいと思う。つまり、これは底の浅い自分本位な癒しの問題であり、自分のすべてをそのまま認めてほしいという、甘やかされた人間の精神によるものだと分かってきたからである。そう、そうした人間は、若者に限らず、たしかにいるのである。キリスト者というのは、本来自己の罪を徹底的に味わい、打ちのめされた上で神に救われるという段階を経るものであるはずなのに、それがないままにクリスチャンともてはやされ、わずかな挫折に傷つき、癒しこそ神の救いだ、ととことん勘違いしているような人間が、たしかにいるのである。
 とくに、ケータイ小説の七つの大罪というのは、繰り返し述べられることだからでもあろうが、面白く読ませてもらった。リアリティのないものに、逆にリアリティを感じるというのは、ゲーム世界と無関係ではないと思うが、それはゲームが原因であるのではなくて、そういった状況を生んだ時代の何かがあるのだろう。
 ただし、そこに「真の救い」の可能性を見る筆者には、同調できない。それは、やはりどこかバーチャルな救いでしかないと思われるからである。




Takapan
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